キール学派 (The Kiel School)

原ページ
 
Google
WWW 検索 cruel.org 検索

キール世界経済研究所の紋章

[: このページは HET ウェブサイトの一部だ。キール世界経済研究所にも、その他どこの組織にも関連していないしお墨付きももらっていない。キール研究所の公式ページはこちらだ。]

 「キール学派」とは、第一次世界大戦と第二次世界大戦との間に、キール世界経済研究所に属していたドイツの改革派経済学者たちのことだ。キール研究所は 1914 年にベルンハルト・ハルムズが創設し、1926 年から 1931 年まで Adolph Lowe が所長を務めた。研究者は、Hans Neisser, ヤコブ・マルシャック, ゲルハルト・コルム 、ヴァシーリー・レオンチェフ などがいる。キール学派はヒトラーが権力の座についた後で解体されて、メンバーもちりぢりになった。その主要メンバーの多くはニューヨークの New School for Social Researchに再結集し、「Institute of World Affairs」と改名して戦前の研究プログラムを継続しようとした。

 キール学派の研究プログラムはざっとまとめると 成長の「構造」理論ビジネスサイクルの構造理論だ。手短に言うと、「構造」アプローチは、成長やサイクルの原因は、実経済の各種セクターの関係にあるのだ、と論じる。かれらは、中央ヨーロッパの長い多セクターモデルからあれこれ引っ張り出してきている。マルクストゥガン=バラノフスキー, シュピートホフ, アフタリオン and フェルドマンなど。

 キール学派のアプローチでは、技術進歩が資本に対する実質リターンをどんどん向上させ、このため成長プロセスの途上ではセクターの調整不良や永続的な過剰キャパシティ、技術的失業が生じる。「不均一成長 (disproportional growth)」の構造理論は他のドイツ経済学者たちにも採用された。特にエミール・レーデルラーは、New School for Social Researchでキール研究所の残党たちに加わった。キール学派の「水平分離 (horizontally disaggregated)」された、つまり多セクターの投入産出アプローチは、ワシーリー・レオンチェフ (1941) によってアメリカ経済学に導入された。レオンチェフも、1920 年代にはキールの研究者だった。ラグナー・ヌルクセの研究 (1934) もまたキール的なアプローチと関連している。

 キール学派の構造成長理論は、伝統的なものとはちがった政策手段を意味している。賃金を引き下げたり需要を刺激したりする「総和的 (aggregate)」な手法は、問題の根底にあるセクター間の問題を無視するもので、だからもっと厳密に的を絞る必要がある。レーデルラーが述べたように:

「失業が存在するときには必ず、賃金さえ引き下げれば均衡が再現できるという原始的な思いつきは、理論のゴミ捨て場送りがふさわしい」 (E. Lederer, 1931: p.32)

 かれらは、唯一の有効な政策手段は、セクター問題を解消してバランスのとれた成長を実現するものだ、と論じた。この政策手段の経済インパクトを慎重に分析して、長期成長の目標をしぼるという議論は、キール学派のおそらくは最も成功したメンバーであるゲルハルト・コルムの財政政策の関する研究でも強調された。

 この手の話はもちろん、政府による「ミクロ」マネジメントがかなり必要だということで、つまりは国にかなりの権限を移譲しなくてはならない――ナチスの政権下で苦しんだキール学派としては、これはあまりありがたくない考え方だ。だからキール学派の多く、特に Adolph Loweは、経済学の範囲内を超えて、多の社会科学や人文学に手を出して、自分たちの政策分析に役立てようとした。その最終的なバージョンは「産業民主主義」で、政策はあいかわらずミクロ指向だけれど、それが民主的コントロールの下にあって、明確な福祉基準で評価される、というものだった。

キール学派に関するリソース


ホーム 学者一覧 (ABC) 学派あれこれ 参考文献 原サイト (英語)
連絡先 学者一覧 (50音) トピック解説 リンク フレーム版

免責条項© 2002-2004 Gonçalo L. Fonseca, Leanne Ussher, 山形浩生 Valid XHTML 1.1