フランス・リベラル学派 (The French Liberal School)

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リベラル派の牙城、コレージュ・ド・フランス

 政治と経済の両面において、理論家ジャン=バティスト・セイ (Jean-Baptiste Say) が設定した伝統に属する 19 世紀フランスの経済学者たちを「フランス・リベラル派」と呼ぼう。経済学では、これはゆるい形での古典派経済学に従いつつ、効用や需要にかなりの役割を残している、ということだ。またかれらは、賃金の不動の法則や、どうしようもないレント上昇、賃金と利益のトレードオフ、機械化による失業、一般的な過剰など、古典派の悲観的なお話しの多くを避けて、階級間の楽しい「調和」や市場の自律システムの万能ぶりなどを強調したがった。政治的には、これは急進的自由放任主義路線を支持、ということだ。つまるところ、かれらはイギリス「マンチェスター学派」のフランス版で、ただ理論的にはちょっとマンチェスターより優れ、そしてずっと楽観的だったわけだ。カール・マルクスは後にかれらを「下品な」経済学者だと嘲笑することになる。

 フランスのリベラル主義のルーツをたどると、啓蒙主義哲学者に出くわす。特に重農主義テュルゴーコンディラックの影響が大きい。1789年のフランス革命以後、哲学者と経済学者の集団が、未だアンシャン・レジーム時代の知的遺物をすべて怪しげと見なす共和国制フランスで、リベラル精神を再興させようとした。この集団は idéologuesと呼ばれていた。その指導者はデステュット・ド・トラシー (Destutt de Tracy)と、ジャン=バプティスト・セイ (Jean-Baptiste Say) だった。雑誌 La Décade philosophique がその主要な媒体となった。

 ナポレオン・ボナパルトの帝国政権は、保護主義と規制による「戦争経済」を作ろうとしていたので、 idéologues たちは弾圧された。でも 1815 年以後、ブルボン王朝の支配者たちが復活してリベラル派の残党たちを栄誉と名誉に雨あられと注ぎかけて、リベラル派と体制派との親密な関係が始まった。でも多くのリベラルたち(たとえばシャルル・デュノワイエやシャルル・コント) はブルボン政権の絶対主義的な傾向が不満で、1830 年の七月革命を支持した。リベラル派の最大のライバルはシスモンディとフランス社会主義者たちだった。両者の間をうろうろしていたのが、サン=シモン のあまりはっきりしない思想だ。

 19世紀半ば頃、フランスのリベラル派の旗印を掲げていたのは、学者と著作家たちの集団だった。ここではかれらを journalistes と呼んでおこう (またの名を「超自由放任主義者」とか「パリグループ」と言う)。この運動の中心はミシェル・シュヴァリエ (Michel Chevalier)、Jean-Gustave Courcelle-Seneuil、Gustave de Molinariなどだった。かれらの自由放任経済政策支持は、アングロサクソンのお仲間よりもっと極端だったし、政府への影響力は他のところとは比べ物にならないほどだった。フランス国民の心や思考をめぐる争いにおいては、ライバルの社会主義者たちが多少なりとも成功したけれど、それですら 1848 年の騒動とナポレオン三世の第二帝国の成立の後はすぐに勢いを失った。人気の高い自由放任支持の風刺家フレデリック・バスティアがヒットを飛ばしたのもこの時期だ。

 他の派閥の経済学がフランスに根をおろさないようにするため、主流派リベラルたちは経済学の専門職をがっちり掌握していた。 1842 年には、かれらは Société d'Économie Politique (政治経済学会) と非常に影響力の強い Journal des économistes を創刊した。かれらはまた出版社のGuillaumin 社を支配して、ここから Coquelin の有名な Dictionnaire d'économie politique (1852) が刊行されて、経済論争をリベラル的な色づけで述べ直している。

 第二帝国の間ずっと、フランスの大学職はほとんどすべて、主流派リベラルに占められていた。コレージュ・ド・フランスにおける権威の高い研究職も、1831 年に創設されて以来、次の世紀までかれらの手中にあった――J.B. セイからロッシシュヴァリエルロイ=ボリューへと。またフランスの知的活動すべてに大きな影を落とす強力な科学アカデミー Institut de France の経済部門もコントロールしていた。

 また、1830 年頃には、フランスリベラル学派はまともな経済理論をすべてうっちゃってしまっていた、ということも指摘しておこう。ほとんどの journalistes は経済政策のあれこれに専念して、まともな基盤に依って立つことなしに、漠然とした「需要と供給」的な論理だけで思考を展開していた。真剣な経済理論――特に数理的なもの――を追求したのは、オーギュスタン・クルノーやオーギュスト・ワルラス、そしてジュール・ デュピュイを始めとするエンジニアなどのような一匹狼たちだけだった。でもリベラル学派は、この一匹狼たちを手法的な理由で容認できなかった。かれらが結託してクルノーとワルラス (父親息子の両方) にしかけた攻撃は両者を押しつぶし、その業績を地下に追いやった。エンジニアたちが助かったのは、かれらは主流派リベラルの支配していない唯一の学術機関 grandes écoles に守られていたからだ。

 リベラルの没落は、1878 年以後ゆっくりと訪れた。フランス中の大学の法学部に、政治経済の教授職が設けられるようになったのだ。その職についたのはほとんどがフランス歴史学派の人々だった。その後フランスは、経済学では経験論的な方向に、政策提案では協調組合主義 (corporatist) 的な方向に向かった。 Journal des economistes の独占は、もっとずっと多様な見解を扱う Revue d'économie politique が 1887 年に刊行されたことで破られた。

Philosophes: フランス啓蒙主義のリベラルたち

イデオローグ (Idéologues) たち: 共和党リベラルたち

復権リベラルたち

ジャーナリストたち (Journalistes): 第二帝国の戴冠せるリベラルたち

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