フェビアン社会主義 (The Fabian Socialists)

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ビアトリス・ウェブ自宅のフェビアン・ステンドガラス

[Note: ここは HET ウェブサイトの一部なのだ。このページはフェビアン協会や労働党その他の組織とは関連がないし、お墨付きももらっていない。公式のフェビアン協会ウェブサイトはこちら]

 ドイツのマルクス修正主義者のイギリス版で、イギリス歴史学派に大きな影響を受けた、中上流階級のインテリグループ――「フェビアン協会」――は 1884 年に登場した。ユートピア社会主義の末裔傍流とでも言おうか。初めて世に知られるようになったのは、シドニー・ウェッブFacts for Socialists (1884) が出たときで、その後ウェッブ、ショーたちが書いた有名な Fabian Essays in Socialism (1889) で一気に知られるようになった。

 フェビアンたちの名の由来は、有名なローマ時代の将軍ファビウスから取ったものだ。ファビウスはハンニバルと戦った将軍で、「大攻勢」をかけるまでの「時間稼ぎ」をしたのだった。社会主義においてこの大攻勢がいつ起こるかは、永遠の疑問だった。正統派マルクス主義者たちの革命戦術を避けた中流階級のフェビアンたちは、政治や実際的な利益にもっと直接的に関わっていた。かれらは、「国際労働党(インターナショナル)」や労働組合、生協運動だけでなく、イギリスの政治機構すべて(リベラル党やトーリー党も含め)と深く接触を持っていた。

 フェビアン協会の中核にいたのはウェッブ夫妻――シドニー・J・ウェッブとその妻、ビアトリス・ポッター・ウェッブ (1892 年に結婚)。二人は産業化したイギリスや、別の経済的仕組み(特に協同組合)についての無数の研究を執筆し、政治改革に向けてのパンフレットをたくさん発行した。かれらの体系の中核にあるのが、リカード的なレントの理論で、かれらはこれを土地だけでなく資本にも適用した(そして労働にも――高い労働所得に対する反対はここからきている)。かれらの結論は、このレントを獲得するのは国の責任だというものだった(ヘンリー・ジョージの結論と驚くほどよく似ている――ショーは、ジョージにはっきりと謝辞を述べている)。かれらが後にソヴィエト・ロシアを賞賛するようになったのは、スターリンがこのレントを取得するのに非常に「効率がよかった」からだ。

 ある同時代人が述べたように、「かれらは一オンスの理論を一トンの実践と組み合わせた」。その実践というのは、フェビアンたちにとっては、自分たちの望む方向に世論を動かすことだった。これは大衆組織によるのではなく、政府の改革を指導する強力な「少数者」(できれば自分たち)に選択的に教育をほどこすことで実現されるのだ、というのがフェビアンたちの立場だった。だからかれらは、自分たちの主張を出身の狭いインテリゲンツィア階級以上に広げる努力をかなり後まで示さなかった。1895 年に London School of Economics (L.S.E.) を創設したのはウェッブ夫妻だった。

 無数の「フェビアン・エッセイ」刊行と、ウェッブ夫妻のカリスマ的な魅力のおかげで――そしてそれがジョージ・バーナード・ショーと H.G. ウェルズなどの文壇からの支持を得て――イギリスのインテリ層や政府役人に対しては、かれらはかなりの影響力を持った。たとえばアルフレッド・マーシャルは、フェビアン的な主張に対する親近感をはっきり認めている(ただしかれらの反理論的な立場は嫌っていた)。逆にフィリップ・ウィックスティード――価値の労働理論と限界効用理論についてショーとやりあった――はずっと批判的だった。

 一部のフェビアン、たとえば G.D.H. コールや小説家 H.G. ウェルズが袂を分かったのは、その訴求対象が狭かったからだ。コールは「ギルド社会主義」を創設した。これはフェビアンたちの好きなインテリ政府機構ではなく、国からの特許は得ていても、もっと自律的な労働者の生産組織――「ギルド」――に依存していた。この意味で、「ギルド社会主義」は Sorel によるフランスのサンディカリズムに近かったと言える――ただしちょっとおとなしめではあったけれど。

 フェビアン集団の分裂はさらに深まった。ウェッブ夫妻とショーは、自分たちの影響力をイギリス帝国主義支持――ボーア戦争やその他帝国主義的な失策の支持――に使おうとしたのだ。かれらは、そうしたほうが自分たちの改革が(実現されれば)もっと広く適用されると考えたのだった。広範な大英帝国が一つあったほうが、無数の小さな国があるよりも、改革を推進しやすいというのがその発想だった。ウェッブ夫妻が独占を支持していたのも有名だ――特に 1897 年にかれらは、「市場での値切り合戦 (higgling in the market)」(つまりは競争)はよろしくない、なぜなら競争価格は常に労働者への負担を増すから、と論じたのは有名だ。独占のほうが、労働者の扱いを向上させる余裕があるので望ましい、というのがその議論だ。

 フェビアンたちは 1930 年代に、ついに各種の理由から瓦解した。まずは、ウェッブ夫妻の無根拠なソヴィエト・ロシア崇拝は、グループ内のかなりの人々に悪趣味に映った。第二に、イギリス労働党が、労働組合運動の盛り上がりに乗じて勢いを増したために、フェビアンたちの活動は余計なものになってしまった――そして、労働者階級活動家たちの集団は、このえらそうで愛国的なフェビアンたちを信用しなかった(特に 1902 年にシドニー・ウェッブが教育法を書き上げて、これに対して労働党がほとんど一丸となって反対してからは――でも 1914--1922 年まで労働党の党首を務めたアーサー・ヘンダーソンはフェビアン会員だったし、労働党の憲章で、社会主義を基盤にすると述べた有名な第四条はシドニー・ウェッブの手になるものではあったのだけれど)。第三に、かれらは L.S.E. へのコントロールも失った。キャナン (Cannan) と、そしてもっと強烈にはロビンスが同校を明確にジェヴォンス的な方向に向けたからだ。第四に、かれらの 1930 年代の知的影響は、ケインズの影響力の前では影が薄れた。最後に、かれらの主張した改革の多くは大恐慌の途中やその後に実現されてしまい、かれらの仕事はある意味で「終わった」。特に重要だったのは、1942 年の有名な「ベヴァリッジ報告」の後に、イギリスの包括的福祉国家化がほぼ確立したことだった。

フェビアンたち

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