ケンブリッジの新古典派たち (The Cambridge Neoclassicals (「マーシャル派」)

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ケンブリッジ大学の紋章

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ケンブリッジ大学におけるアルフレッド・マーシャルの近隣は、英語圏での 限界革命結集となった――でもちょっと牙を抜かれてはいた。というのも、マーシャル派たちは リカードミル などのイギリス 古典派経済学者たちの成果と、もっと大陸的な伝統に近いローザンヌ学派オーストリア学派寄りの、ジェヴォンス前衛限界主義 と統合したがったからだ。

当のアルフレッド・マーシャルの大力作『経済学原理』(1890) でも示され、ジョン・ネヴィル・ケインズ (1891) の論考でも展開されていたように、ケンブリッジの新古典派の手法は大陸とはちがっていた。これはもちろん、マーシャルの主要な使徒たちの業績にもあらわれている――アーサー・ピグー、デニス・ロバートソン、若きジョン・メイナード・ケインズ などだ。かれらは数学的な形式主義よりも、現実的で直感的な議論に頼った――歴史的な時間や制度、産業構造なんかも考慮比いれたり、不確実性やお金やビジネスサイクルみたいな実世界の現象も検討した。かれらが重視したのは、大陸の連中みたいな 理想状態 ではなく、典型的な状態 だった。結果として、かれらの研究の多くは部分的な市場均衡を強調し、議論も壮大で理想化された多市場一般均衡体系に基づくのではなく、「典型的な」エージェントや企業等々といったものをもとに議論を進めている。

古典派新古典派の議論の統合、特にその「効用に基づく」需要と「実質コスト」に基づく供給の相互作用に依存した議論は、しばしばかなりの大ざっぱぶりと一貫性のなさをもたらして、フィリップ・H・ウィックスティード みたいな形式を重んじる ジェヴォンス派 経済学者や、大陸のローザンヌ学派オーストリア学派 たちをあきれさせた。

英語圏では、1890年代から1930年代まで、マーシャル派経済学は新古典派の主流となった(厳密には正統派ではなかったにせよ)。そして経済学の専門化と、学術界における独自分野として経済学を確立させるにあたっての主力となった。マーシャル派の手口は、アメリカには影響力の強い ハーバード大 のフランク・タウシグ によって移植され、イタリアにはマフェオ・パンタレオーニ によって移植された。

マンチェスター学派のもっと過激なリバータリアンたちとはちがって、マーシャル派たちは自由放任主義をやんわりと擁護したものの、無数の条件をつけた。多くは効用主義者だったので、自由市場をその結果で評価するという立場で、それ自体がすばらしいという立場じゃないあった。ある意味で、マーシャル派ドクトリンは、ビクトリア朝後期の社会、政治、経済構造を理論的にまとめなおしたものと言える。これはマルクス派社会主義者 におるその時代の糾弾に対する、有益で楽観的な対抗馬の役割を果たした。

マーシャル派経済学は、スラッファ が1926年にマーシャル派の企業理論をボコボコに批判したこと、1930年代のパレート派の台頭(これをイギリスに持ち込んだのはLondon School of Economicsだった) などで1930年代には急落した。特に決定的だったのは、ジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』(1936) だ。もとはマーシャル派の主導的地位にいたケインズは、マーシャル派の本拠たるケンブリッジの若き生え抜きたちを、旧体制たるマーシャル派に刃向かわせてしまい、世界がそれに続いた。1936 年以降、初期のケンブリッジ新古典派のドクトリンや手法を一部でも維持したのは、1950 年代に台頭した (第 2) シカゴ学派だけとさえ言えるかもしれない。

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