金塊主義/重金主義論争は、1800年代初期に、銀行が要求に応じて銀行券(紙幣)を金と兌換にすべきかどうかについて繰り広げられたものだ。これは後の 1840 年代に、イングランド銀行の黄金パリティを巡る銀行-通貨論争に形を変えて展開された。
18 世紀には、イギリスには銀行のクリアリングハウス方式が存在していた。お金として出回る銀行紙幣は、民間銀行によって発行されていた。この bearer note は、銀行が持っている黄金に対する所有証書だった――このせいで、いまでもイングランド銀行の紙幣に残っている条項があるわけだ:「この保持者の要求に応じて X ポンド払うことを約束します」というやつだ。この時代には、この約束はホントだった。だれでも紙幣をその発行銀行に持っていって、これを黄金に換えてね、と要求できたんだよ。だから長いこと、すべての紙幣はそれぞれの民間銀行が金庫に持っている黄金の量に応じて発行するものだった。
でもスコットランドでは、ちょっと例外があった。銀行券には、銀行が兌換性を一時停止できるという条項がついていることが多かった。確かに銀行は法的には、その銀行券保持者に金塊を渡すことになってはいたけれど、必要に応じてこの交換に一時的に「待った」をかけられたわけ。これはシステムとして、クリアリングハウスの「横暴」手口に対抗するためのものだった――いくつかの銀行がたばになって、Z 銀行発行の紙幣をわざと貯め込んで、ある日それを全額ドカッと Z 銀行にいっしょに持ち込んで、黄金を寄越せ、と言ったりする恐れがあったわけだ。もちろん、黄金は紙幣の全額分あるわけじゃなくて、その一部がリザーブとして銀行に置かれているだけだったから、Z 銀行はそんな大量の黄金を渡せない。兌換性が法律で義務づけられていたら、Z 銀行は破産を宣言するしかなくなる。孤立銀行に対するクリアリングハウスのカルテルによる攻撃は、ヨーロッパや北米じゃ珍しいことじゃなかった。だからスコットランド法は、兌換性を一時止めてもいいよ、ということにした。でもこの条項は 1765 年には廃止されて、その後はスコットランドの銀行も、要求に応じて全額払うべしってことになった。
でも、1797 年には、フランス兵がイギリス本土に上陸したという噂が流れて、イギリス全土で取り付け騒ぎが起きた。顧客はあわてて銀行に走り、すぐに紙幣を金塊に換えろと要求した。イギリス政府は、この取り付け騒ぎの危険さに気がついて、銀行がイングランド銀行発行紙幣の兌換を止めてもいいよ、と認めた。
この時は、危機も適切に回避されたけれど、政府はすぐには兌換性を回復させなかった。それどころか、黄金への兌換性を尊重しなくても紙幣をどんどん発行していい、と認めた。すぐさま、弁護士や銀行家や政治家が群れをなして紙幣の金兌換性の支持派と反対派に別れ、一大知的論争が始まった。一方には「金塊主義/重金主義」グループがいて、兌換性を維持しろと論じる。対するは「反金塊主義/重金主義」グループで、このまま兌換停止を続けようぜ、と論じた。
金塊主義者の議論は単純明快。銀行が金への兌換を義務づけられないんなら、金庫の金塊以上にたくさん紙幣を発行したくなっちゃうだろう。そうなったら、通貨の供給が増えすぎて、通貨のお値段が安くなり、インフレになる、ということだ。インフレを避けるには、紙幣の金兌換を復活させなきゃいけない、とかれらは論じた。金塊主義のスポークスマンとしては、ヘンリー・ソーントン (Henry Thornton)、そしてちょっと遅れてジョン・ホイートリー (John Wheatley) とデビッド・リカード (1810, 1811) がいる。
一方の反金塊論者は、いわばジョン・ロー (1705), ジェイムズ・ステュアート卿 (1767)、アダム・スミス (1776) なんかの「
そしてなんかの間違いで過剰な紙幣発行が起きても、インフレなんか起きない、というのもその主張だった。というのも、手形が決済されたら、その分の現金はすぐに銀行に戻るからだ。これは「還流原理 (reflux principle)」と呼ばれて、
金塊主義者のヘンリー・ソーントン (1802) は、真手形ドクトリンの見事な批判を展開した。商業の需要が限られているなんてだれが保証してくれるの? というのがかれの問いかけだった。実際の資本
結局、実際のできごとを見るとどっちが正しかったわけ? ジェイコブ・ヴァイナー (1937) が記録しているように、確かに 1800 年代初期にはインフレが起きていて、1814 年にこれがピークに達する。金塊主義者たちは、これぞ自分たちの正しさの証拠だと論じた。反金塊主義者たちは、これはナポレオン戦争中に政府による調達が rationing effect を発揮したからなんだよ、と言い逃れ。1810 年の議会委員会による報告書は、金塊主義者の立場の穏健版を採用していて、兌換性を段階的かつ部分的に復活させましょうと提言した。でもデビッド・リカード (1810, 1811) はもっと強気だった。兌換性の即時完全復活をかれは主張した。
でも、ナポレオン戦争が終わってみると、議論は反金塊主義者たちに有利になった。1815 年から 1830 年まで、インフレどころかデフレが長引いた。これはどう見ても、金塊主義者の議論にはあてはまらないんじゃない? でも評決ははっきりしなかった。兌換性復活法が 1819 年に成立して、兌換性は 1821 年に回復した。だから、兌換停止でデフレが 6 年続いていたにしても、その後 9 年のデフレは兌換性の復活によって通貨供給が引き締められたせいかもしれない。
金塊主義論争は、1840 年代と 1850 年代に(ちょっと姿を変えて)再登場した。1844 年の銀行法が、イングランド銀行に紙幣発行の独占権を与えたときのことだ。兌換性は要求されなかったけれど、イングランド銀行は発行紙幣量と銀行にある黄金リザーブとが同量でなくてはならないと明確に要求されていた。さて、この黄金パリティは尊重されるべきだろうか?
銀行法を支持するのが、当時のいわゆる「通貨学派」だ。かれらは、(金本位制が定める)紙幣発行の最大量があるべきだと論じた。そうしないとインフレになる。つまりかれらは数十年前の金塊主義者たちの議論を復活させたわけだ。通貨学派を率いるのはオーバーストーン卿で、その仲間にはジェイムズ・R・マカロック、トマス・ジョップリン、サミュエル・M. ロングフィールド、そしていまや宗旨替えしたリチャード・トレンスがいた。
この法律に反対したのが「銀行学派」で、黄金パリティに反対した――が、古い
たまたま、この期間にはいろいろあって、銀行法は三回にわたり停止されたので、銀行学派の立場は信用を高めた。それでも当時勝利を収めたのは通貨学派のほうで、紙幣発行の黄金パリティは、一般に第一次世界大戦まで維持された。
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