アメリカの現状追認論者たち

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Commodore Vanderbilt's Locomotive

 19 世紀から 20 世紀初期にかけてのアメリカの超保守派経済学者や社会科学者を表現するにあたり、ぼくたちが思いつけた唯一の表現が「アメリカの現状追認論者たち」だった。それなりに名声あるアメリカ初期の経済学者は、それまでにもいた。たとえばヘンリー・C・ケーリー (Henry C. Carey) とダニエル・レイモンド などだ。でも、決定的にアメリカ的な経済学が出てきたのは、やっと 1870 年代のことで、フランシス/ A・ウォーカー (Francis A. Walker) の登場を待たねばならない。その後 40 年かそこらにわたり、アメリカの経済学会はウォーカーに追随する「正統派」に支配されていた。この正統派は理論的にはいささかいい加減で、古典派新古典派の間を適当にうろうろしていた。かれらの特徴がいちばんはっきり出たのは、その応用研究や政策的な立場だ。

 19世紀最後の四半期は、アメリカにとってはとてもつらい時期だった。金融パニック、農業危機、鉄道の台頭と、それに関連した鉄工業などの隆盛は、アメリカの経済風景をひっくり返した。新産業の所有集中と汚い手口――「トラスト」だ――を懸念する人も多少はいた。でも、それに対抗すべく蜂起したagrarian crusadesや、過激化した労働組合を懸念する人もいた。荒っぽい 1880 年代の資本家・労働者の衝突で、たくさんの流血沙汰が起きた。またヘンリー・ジョージ (Henry George) や金銀複本位性論者 (Bimetallist) や進歩党 (Progressivists) など、人民主義のアメリカ改革者が活発になったのもこの時期だった。経済学者たちも、どっちにつくんだと迫られた――そしてかれらは実に露骨な党派性をむきだしにした。

 アメリカ大学システム、特に東部の大学は、断固として当時の現状追認をする学者が圧倒的に多かった。ジョンズ・ホプキンス大学のサイモン・ニューカム、コロンビア大学のジョン・ベイツ・クラークシカゴ大学の J.ローレンス・ラフリンハーバード大のチャールズ・ダンバー (Charles Dunbar) とフランク・タウシッグ、イェール大学のアーサー・T・ハドレー (Arthur T. Hadley) とウィリアム・グレアム・サムナー (William Graham Sumner) はみんな、新しい産業時代を擁護して、労働組合や人民主義を糾弾した。地方大学は、ウィスコンシンやミシガンなど農業的・産業的なアメリカ中西部にルーツを持っていたので、もっと進歩的な色合いを帯びていた。

 アメリカ現状追認論者たちは、マンチェスター学派っぽいリベラルではなかったことを理解しておくのは重要だ。というのも、その時消えつつあったアメリカこそが、すでにリベラル派にとっての夢の世界だったからだ。1870年代以前、アメリカは比較的ゆるやかながらもしっかりした資本主義システムを持っていて、小製造業者と自作農がその根幹をなし、でしゃばらない政府がその背景には控えていた。現状追認論者たちが擁護しなければならなかったのは、新しい産業資本主義だった――有力な独占「トラスト」企業が支配する資本主義だ。これはそれまでの社会経済的な均衡をひっくりかえそうとしていた。困窮した農民、破産した職人や無数の移民たちが、資産所有と独立の夢を捨てて、頭を下げて、ヴァンダービルトやグールド、カーネギー、メロン、ロックフェラー、グッゲンハイムなどの我流「産業親分」たちの産業軍門に下れと言われていたわけだ。この経済学者たちは、まだまだ清教徒的だった伝統的アメリカに向かって、「泥棒貴族」どもによる押さえのきかない貪欲、汚い手口や富の派手なひけらかしが、実は倫理的なんだということを説明しなきゃいけなかった。そこで、ほんの一世紀ほどまえにイギリスの重商主義主義的やり口に対する革命を戦った人々に対して、この現状追認論者たちは、露骨に腐敗した政府がその権力を使って労働組合や農協を潰し、マネーサプライを厳しく制限して、企業間の競争を最小にとどめるために規制を使い、貿易障壁を使ってそれを甘やかすのが許されるべきなのはなぜかを説明しなきゃならなかった。多くのヨーロッパのリベラル派ならそんな立場はすぐ糾弾したことだろう。

 アメリカ現状追認論者たちは、一つだけとてもアメリカ的な特徴を持っていた。現状を擁護するために、宗教的・道徳的な議論に何かと訴えたがる、という傾向だ。かれらはしばしば「経済の永遠の法則」は神の与えたもので公正なのだと主張し、それに対して、たとえば反トラスト法や労働組合合法化によってちょっかいを出そうとするのは、道徳的な見地から大いに糾弾されるべきだと述べた。一部の現状追認論者たち、特にウィリアム・グレアム・サムナー (William Graham Sumner) は社会ダーウィニストたちだった。かれらは進化論を持ち出して経済の「自然な法則」を弁護した。それは自由な契約によって作られた「繊細な組織」であり、それを導くのは「最も適応力の高い」親分たちなのだ、と述べた。こうした道徳的なpietyのおかげで、この現状追認論者たちは反対者たちから徹底的に小馬鹿にされることになった。ソースティン・ (Thorstine Veblen)、ヘンリー・J・ダヴェンポート (Henry J. Davenport)、フランク・H・ナイトは、見事なウィットでこの現状追認論者たちをギタギタにこき下ろした。

 多くの点でアメリカ独自とはいえ、この現状追認論者たちは初期には大西洋の向かいに仲間がいた。イギリスではハリエット・マルチノー (Harriet Martineau) 、ナッソー・シニア (Nassau Senior)、ハーバート・スペンサー (Herbert Spencer)、そしてケンブリッジのマーシャル派たち数名が現状追認論者たちの議論を支持した。フランスリベラル学派の有象無象も、アメリカ人よりは「リベラル」ではあったけれど、現状追認論プンプンの政策的な立場をよく採用した。

 でも、1870年代と1880年代は、ドイツで博士号をとり、その結果としてドイツ歴史学派の手法や哲学を仕込まれた、若いアメリカの学者たちが登場してきた時代でもあった。たとえばリチャード・T・イーライ (Richard T. Ely)、ヘンリー・C・アダムズ (Henry C. Adams)、E.R.A.セリグマン (E.R.A. Seligman)、サイモン・N・パッテン (Simon N. Patten) などだ。かれらは自分たちを分析面ではもっとシュモラー的な規範的アプローチを使い、経済政策については国家・企業的なアプローチを持った新派だと思っていた。かれらはアメリカ制度学派の中核となり、やがて20世紀初期には現状追認論者たちに取って代わることになる。

 「旧」現状追認論者と「新」歴史主義者たちとの手法とイデオロギー面での戦いは、1885年にアメリカ経済学会の創始によって正面切って戦われた。もともとこれは、ドイツの Verein für Sozialpolitik に相当するものを作ろうとして「新」派が思いついたものだった。ラフリン、タウシグ、ハドレー、サムナーは、これが「社会主義的傾向を持つ」として参加を拒否した。でも AEA は当時 MIT にいて経済学部学長をしていた、現状追認論者筆頭格のフランシス・ウォーカー (Francis Walker) を初代会長として引き込むことで、無血革命をなしとげた。その後は、ずっとしっかりした専門組織となった。

 アメリカ現状追認論者たちは、実績のある第一級の理論家を身内に何人か擁してはいたけれど(特にジョン・ベイツ・クラーク)、でも別種の俊英たちをあまり信用していなかった。きわめて理論的で過激なアメリカ限界主義者たち (marginalist)、たとえばアーヴィング・フィッシャー (Irving Fisher)、フランク・A・フェッター (Frank A. Fetter)、ヘンリー・J・ダヴェンポート (Henry J. Davenport) などで、かれらは着想をローザンヌ学派オーストリア学派から得ていた。おもしろいことに、歴史主義者 ((historicists) はこの連中を自分の「新学派」にまとめて引きずり込もうとしたのだけれど、でもかれらはおおむねその手には載らなかった。もっぱら手法面を中心とした各種の理由から、現状追認論者たちはこの若者たちにあまり活躍の場を与えなかった――それはその後の制度学派もそうだった。コーネル大学を例外として、アメリカの限界主義者たちは僻地に散らばることとなり、そして 1930 年代までしっかりした学派としてのまとまりを持てなかった。

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