ピエロ・スラッファ (Piero Sraffa), 1898-1983.

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Photo of P.Sraffa

 20 世紀の経済学の巨人ピエロ・スラッファは、同時に経済学で最も寡作な一人だった――でもそのわずかな論文の一つ一つが、とんでもない代物ばかりだった。スラッファの 1926 年の規模に対するリターンと完全競争に関する論文 (1925 年イタリア語論文の改訂) は、マーシャル派の企業理論にすさまじい矛盾を見つけ出した。自分の業績に関する有名な 1930 年のシンポジウム結語でかれが述べたように:

「わたしはマーシャルの理論に内在的な前提が何なのかを見つけ出そうとしています。ロバートソンさんはそれをきわめて非現実的と見なすようですが、わたしもそれに同意します。あの理論が、論理的に自己矛盾を起こさず、しかもそもそも説明しようとした事実と一貫性を持つような形では解釈不可能だということについては意見の一致を見ているようです。ロバートソンさんの対処療法は数式を廃棄することで、その示唆によればわたしの手法は事実を廃棄しようとしているのだとか。あらかじめ申し上げておくべきだったかもしれませんが、こういう状況にあっては、廃棄されるべきはマーシャルの理論なのではないかと考えております」(Piero Sraffa, 1930, Economic Journal, March, p.93)

 これは二つの方向への発展を見せた――一般均衡的な生産理論と、もっと大胆な方向としては、ジョーン・ロビンソンによる不完全競争理論の開発だった (どうやらスラッファは、ジョーン・ロビンソンが尊敬した唯一の男性だったらしい――そして恐れた唯一の男性でもあった)。

 引っ込み思案でイタリア生まれのスラッファは、1920 年代にジョン・メイナード・ケインズに連れられてケンブリッジにやってきた。イタリア革命家のアントニオ・グラムシの親友だったスラッファは、時に「隠れマルクス主義者」とも言われていた――そしてどうやらかれは、時に自分の信奉するものについてかなり明言していたらしい――1920 年代のイギリスは、急進的マルクス主義者をあまり歓迎してくれるところではなかったのだけれど。

 スラッファはすぐに、ケンブリッジの世界の名物となった。かれはフランク・ラムゼイやルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインと一緒に「カフェテリアグループ」の一員で、J.M. ケインズの 1921 年確率論考を検討した。またスラッファはケインズと手を組んで、フリードリッヒ・ハイエクビジネスサイクル論争にどっぷり浸からせた。

 それでも、学生の前で引っ込み思案だったスラッファは、講義が死ぬほど苦手だった。いつもながら立ち回りのうまいケインズは、スラッファをキングカレッジの司書に任命させて、暇つぶしに王立協会に頼んで、デヴィッド・リカードの新しい著作集編集作業をスラッファに任せるようにしてもらった。スラッファは 1931 年にリカードの著作を入念かつ詳細に集めて編集しはじめて、結局この仕事は 20 年かかった! 1943 年にはこれはすでに印刷所に入稿していたのに、最後の最後になって、アイルランドでリカード論文がトランクいっぱいに見つかって、これが延期された。刊行がやっとこさ始まったのは、 (モーリス・ドッブが助手として乗り込んだ後の)1953 年だった。これは驚異的な著作集となった・ジョージ・スティグラーが後に書評で述べたように、「リカードは運のいい人物だった。そしていまや死後 130 年たって、かれのツキは相変わらず衰えていない。かれはスラッファの知己を得たのだ」(Stigler, 1953)。この著作集へのスラッファの序文は、経済思想史の中の古典派・新古典派の核となる著作について、おそらくは最もすばらしい解釈の一つを見せている。

 こうした努力の成果は、経済理論の中で最長の熟成期間を持った論文の一つとなって現れた。1920 年代に執筆が開始されたスラッファの『商品による商品の生産』 Production of Commodities by Means of Commodities――厳密きわまりない 100 ページの文章がやっと脱稿したのは 1960 年のことだった。この本は、リカードの理論を現代のために解決して述べなおした――そしてこれは 1960 年代と 1970 年代にケンブリッジなどの新リカード派が旗揚げした、「古典派復興」の契機となった。スラッファはまた、経済だけでなくある産業における資本理論での有名な「再スイッチ」を描いて見せた最初の一人だ――これはケンブリッジ資本論争につながり、新リカード学派は勢いを増した。

 スラッファのおもしろい貢献としては、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインとの関係がある――ヴィトゲンシュタインは、『哲学探究』――20 世紀の最も重要な哲学著作との説もある――における重要な足がかりを得るのに、スラッファに負うところが大きかったと主張している。

 最後に一つ、小話をしておこう。1930 年代だか 40 年代だかに、スラッファはどうやら小金を手にしたらしいんだが、「唯一完璧」な投資を見つけるまではそれを投資しないと述べた。1945 年に、広島と長崎に原爆が落ちてから、スラッファはそのお金を全部日本国債につぎ込んだ――敗北した日本が、戦後の瓦礫にいつまでも甘んじているわけがない、と信じて。言うまでもなく、当時日本国債は紙くず同然だった。結果としてこの急進的経済学者は、その後大もうけしたわけだ。

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