グスタフ・フォン・シュモラーの指揮下でドイツ歴史学派は息を吹き返した。シュモラーはベルリン大学という玉座から、19世紀後半のドイツ学術界を支配した。シュモラーによる古典派 と 新古典派理論に対する攻撃は、たとえばロシェルなどの先人が敢えて述べた内容よりはるかに熾烈だった――理論を普遍化しすぎているというにとどまらず、そもそも理論というもの自体を否定するに等しい論調だった。だからシュモラーは かつての歴史学派が、歴史の「段階論」を唱えたがったり、経済史について「規範」理論ではなく「実証」理論を提唱しようとしたりすることいついても批判的だった。シュモラーが実施したり命じたりした研究のほとんどは、政治経済史の実に細々した分析に向けられていた。
シュモラーの新古典派経済学への反発は、カール・メンガーとの有名な手法論争 (Methodenstreit) を引き起こした。多くの人は、シュモラーは論争に参加しないことで議論に負けたと論じる(メンガーの『国民経済学原理』を受け取ったシュモラーは、読まずに著者に送り返し、それがまさに読む価値すらなかったのだという「書評もどき」を発表した)が、それでもシュモラーはドイツの大学教授任命制度を掌握し続け、古典派と新古典派経済理論をほとんどドイツの教育から追放した――そして当時の唯一の潜在的な敵であるメンガーのオーストリア学派からは永遠に恨まれることとなる。
グスタフ・フォン・シュモラーの政治参加も重要だった。1872 年には Verein für Sozialpolitik, (「社会政策協会」)を組織した。これは、ある種の企業主義的な官学労働連合対を支持する保守派経済学者主体の組織だ。リベラルたちは、この組織が国家介入を擁護するのが我慢ならず、シュモラーと歴史学派を Kathedersozialisten (「教授職/学会社会主義者」) とけなした――そして歴史学派はこれを完全に否定することはついにできなかった。
一方で本物の社会主義者 や マルクス派はシュモラーの集団 (アドルフ・ワグナーもひっくるめ) を政府や企業の手先と見なし、労働者階級を支配し無力化しようとしていると考えた。これは幾度も、ほぼ完全に裏付けられた。Verein はビスマルクの産業政策に対し、いい加減きわまる正当化ばかりし続けたからだ。Verein は、ドイツ帝国政府による経済政策決定に反対することはまずなかった。
とはいえ、シュモラーの経済学における遺産にミソがついたのは、経済思想史のもっとも有力な記録者の一人、ジョセフ・シュムペーターが同じオーストリア人で、歴史学派にまったく好意を抱いていなかったせいもあるのかもしれない。
パレートによるちょっとした小話を: ジュネーブのある大会でパレートが論文を発表していると、グスタフ・フォン・シュモラーが聴衆にいて、「経済学に法則なんかないぞ!」と叫び続けてパレートの話を騒々しく邪魔し続けた。翌日、パレートはシュモラーが通りにいるのを見つけた。パレートは顔を隠しながらシュモラーに近づき、乞食のふりをした (パレートはろくな服を着ないので有名で、これはさほどむずかしいことではなかった)。「お願いです旦那、どっか無料で喰わしてくれるレストランをご存じありませんか?」するとシュモラーはこう答えた。「いや君、そんなレストランはないよ。だが角を曲がったらとても安くおいしい食事ができるレストランがあるよ」。そこでパレートは正体をあらわし、勝ち誇っていった。「おやおや、つまり経済学にも法則はあるってことですね!」
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