クロード・アンリ・ド・ルーヴロワ、サン=シモン伯爵 (Claude Henri de Rouvroy, Comte de Saint-Simon), 1760-1825

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サン=シモンの肖像

(訳注:原文の一部が http://www.bookgarden.com/catalog/garden/products.php?id=102809 の文と同じ。また原文のhtmlから見て、どうもどこかからコピペしてきた印象あり。)

 没落貴族、アメリカ革命戦争の将校、不動産投機家、ジャーナリストだったアンリ・ド・サン=シモンは、「サン=シモン主義」運動の創始者として名高い。これは19世紀に大流行した、半ば神秘主義的な「キリスト教科学的」社会主義の一種だ。サン=シモンは哲学者、エンジニア、科学者のエリート層が、「合理的」キリスト教ヒューマニズムになだめられつつ、平和的な工業化プロセスを主導することで社会の再編を夢見た。「新キリスト教」——破綻した伝統的な宗教に置き換わる、世俗的な人道的宗教——をほめ、科学者がその司祭になるのだと述べた。この神父役を実際に買って出た弟子も二人いた——バーソロミュー=プロスペロ・アンファンタン (1796-1864) とサン=アマン・バザール (1791-1832) だ。この二人は、サン=シモン主義運動全体を、独自の異様な神秘主義と儀式で染め上げてしまった。

 サン=シモンは社会科学の発達に重要な役割を果たした。自然科学と同じ基盤にたつ「社会の科学」を求める訴えは、弟子のオーギュスト・コント社会学者たち に大きな影響を与え、経済学が科学的な意匠をまとう主因となった。サン=シモン主義信奉者としてはトマス・カーライル、ミシェル・シュバリエ、ジョン・スチュアートミル、若きレオン・ワルラスがいる。

 サン=シモンのビジョンは、19世紀を通じてフランス社会(そしてもっと広くヨーロッパ全体)に大きな影響を与え、その影響を受けた人物にはナポレオン三世皇帝も含まれる。サン=シモン主義が政治的な絶頂を迎えたのは、1830年のフランスの7月革命だろう。だがサン=シモン主義が将来の社会主義に与えた影響のほうがもっと大きかった。サン=シモンの「科学主義」はマルクス派教義の発達に特に大きな影響を与えた——そしてまさにそのために、サン=シモンはハイエクに糾弾された (1952)。

 サン=シモンはヨーロッパで進行中の「工業化」プロセスを同定した初の一人だったが、失業の「不自然さ」は指摘しつつも、労働階級に対する考慮はずっと控えめだった。一般に、サン=シモンのブルジョワエリート主義は、後のもっと「労働重視」社会主義思想家とは一線を画するものだ——特に1848年の革命で過激化したブランキプルードンとはまったくちがう。実際い、サン=シモンの産業社会の「有機性」における「自発的調和」の称揚をみて、かれは実は仮面をかぶった古典的リベラルでしかないと述べる人もいる。私有財産に対する有名なサン=シモン主義の批判は、当人よりはその弟子(特にアンファンタン)による部分が大きい。だがサン=シモンは明らかに、経済政策面では統制論者だった。

サン=シモンの主要著作

サン=シモンに関するリソース


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