啓蒙主義のスイスの政治哲学者で、フランス革命の父ともされるジャン=ジャック・ルソーは、経済学に対する明確な貢献は一つしかしていない――それが Discourse on Political Economy (1755) だ――これはディドロの『百科全書』の項目にもなった。この論文は、はっきりした経済理論は含まず、単にその後『社会契約論』 (1762) で展開されることになる政治哲学の味見みたいなもんだ。以前の論争を招いた『人間不平等起源論』(1754) ――これは文明が人の「自然な善良さ」を破壊して、したがってこれが人間不平等の起源だと論じている――はマルクス派の「疎外」ドクトリンを驚くほど(いやそうでもないか)先取りしているけれど、マルクスの慎重な分析や、後のフランクフルト学派の分析に比べたら、ルソーのなんて社会経済学論としてやっとこ及第点をあげられる程度のものでしかない。
直接的なインパクトこそなかったけれど、ルソーの業績は経済学に対してすさまじい間接的な影響を持っていた。特にかれは、仲間の啓蒙主義哲学者たちと同様に、社会の「自然状態」の存在を信じていた――これは重農主義者やアダム・スミスの発想にも深く根をおろしている。この状態の魅力について「自然人」「高貴な野蛮人」を通じて訴えるかれのやり方は、現代経済学で使われるアナロジーを思わせる(ロビンソン・クルーソーと均衡のことを考えてごらんよ)。
でもルソーは、この発想を既存世界のアナロジーとして考えるほどつきつめなかった――いまも昔も多くの経済学者はそうしているのに。かれはむしろ、既存人間社会について徹底的な批判論者だったので、「自然状態」は「文明」によってゆがめられてしまい。文明化した人々の欲望や動機は社会とのやりとりによって、歪んで構築されてしまっている――「人は自由にうまれるが、いたるところで鎖につながれている」、と有名な『社会契約論』の冒頭に書いた通り。ルソーの主張だと、この「自然状態」を実現するには社会を丸ごとひっくり返すしかない。これはその究極の形では、ホッブス式の競合する欲望の「均衡」として登場するものではなく、人間以外の「一般意志」に貢献するような集合状態を目指すものだった。真の「自然人」はこうした状態でしか存在できず、またそうでなくては自由になれない。この最後の貢献こそがルソーを社会主義 (空想その他問わず) の父として一般に認知させ、ハイエクみたいな後の反社会主義者たちからは大いに恨みを買うことになる。
ルソーの生涯の細々した話はよく知られている(『告白』ではいささか脚色されてはいるけれど)。ジュネーブ市民で、のんきな子供時代の後に十歳で孤児となり、残酷な時計職人に弟子入りして、ついに十六歳でジュネーブから逃亡し、ヨーロッパを放浪して、有閑マダムのド・ワレンの愛人となってフランスに落ち着き、楽譜の筆写人となる(そして若きマブリ神父の家庭教師となる)。1741 年にはパリに移住、すぐに Philosophes 集団――ディドロ、ヴォルテール、ダランベールそしてマブリの明晰な弟エチエンヌ・ド・コンディヤック――に加わった。かれはまた実際に 重農主義者たちと知り合いだったけれど、あまり感心はしなかったようだ。貧乏な愛人テレーズ・ド・ルヴァスールを捕まえたのもこの頃だ(後にルソーは、彼女に生ませた子供五人を孤児院送りにして見捨てる)。
舌鋒激しい『芸術学問論』 (1750) は、ディジョンアカデミーのコンペ応募作品として書かれた。後に二作目の『不平等起源論』 (1755) の後で、文明こそが堕落のもとという理論をめぐって Philosophes と決別し、1757 年にパリからモンメルシーに移住(ダランベールへの手紙に、かれらへのすごい攻撃がいろいろ書かれている)。フランスの田舎で、有名なロマンチック小説『新エロイーズ』や教育論『エミール』、『社会契約論』や、明示的な宗教に関する考察『サヴォアの司祭の教義』を刊行した。このおかげでかれは逮捕されて、著書もフランス中で焚書にあう。すんでのところでイギリスに逃亡――デビッド・ヒュームの庇護と支援を受けて、ここでかれはその議論の多い『山からの手紙』を書いた。でもルソーの被害妄想的な性格と辛気くささのおかげで、人のいいヒュームですらうんざりして、間もなくかれはフランスに戻り、貧困の中 1778 年の死まで放浪生活を送る。
そして数年後にバスチーユあたりで何やら騒動が起きまして……
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