ライオネル・ロビンスは、1920年代の経済学会における風変わりなイギリス人だった。その理由は簡単。マーシャル派ではなく、ジェヴォンズ と ウィックスティードの支持者だったのだ。それが奇妙だったにしても、イギリスでかれがひたすら独特だったのは、本当にヨーロッパ大陸の経済学者たちの著作を実際に読んでいたということだ——ワルラス, パレート, ベーム=バヴェルク, ヴィーゼル、ヴィクセルなどだ。このジェヴォンズ派-ローザンヌ学派-オーストリア学派- スウェーデン学派 への感染のおかげで、ロビンス卿はアングロサクソン経済学という列車をマーシャル派 路線から脱線させて大陸路線にむかわせるにあたり大きな役割を果たした。
その道具はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス と、経済学の手法に関する1932年の有名な論文だ。不運なアリン・ヤングに続いてL.S.E. 学長に 1929 年に就任した30才のロビンスは急速に動いた。最初に彼が任命した教授陣の一人はフリードリッヒ・フォン・ハイエクで、彼が英語圏に新しい「大陸派」の新世代、たとえばヒックス, ラーナー, カルドア、シトフスキーなどを育成した。
ロビンス初期の論文はきわめて戦闘精神旺盛で、価値の主観理論を英米経済学が慣れ親しんだよりはるかに遠くまで推し進めた。費用に関する有名な研究 (1930, 1934) はhelped bring ヴィーゼルによる供給の「代替費用」理論 をイギリスに持ち込むのに一役買った(これはマーシャルによる供給の「実費用」理論と対立するものだった)。マーシャルによる代表的企業の理論批判 (1928) と、ピグー派の厚生経済学批判 (1932, 1938) は、マーシャル派帝国の打倒に貢献した——これはそのあらゆる段階において、池をはさんだ同志と言うべきフランク・ナイトの応援を受けた(ときに足を引っ張られたが)。
ロビンスが大陸派としての本性を見せたのは、1932 年のEssay on the Nature and Significance of Economic Science (「経済科学の性質と重要性に関する論考」)だ。ここでかれは経済学の射程とは「代替用途を持つ希少な手段の関係として人間行動を研究する学問」 (Robbins, 1932) と定義している。ここでの「アプリオリ」理論とマーシャル的直観主義批判は、 フォン・ミーゼスの論文を思わせる。
ロビンスは当初ケインズの『一般理論』に反対だった。大恐慌に関する1934 年の論考は、当時の新古典派分析の見本だ。実際、ロビンスは常に自分のL.S.E. をケンブリッジに対する堡塁と見なしていて、そのケンブリッジにいるのが マーシャル派だろうと ケインズ派だろうとかまわなかったのだ。だがやがて反省し、ケインズ革命を受け入れた (1947)。
後年、ロビンスは経済思想の歴史に関心を向け、イギリスの学説史に関する古典的な研究をたくさん発表した (1952, 1958, 1968, 1970, 1976)。その遺産として最大のものはL.S.E. の台頭だが、ロビンスは現代イギリス大学制度にも貢献している。1960年代に、それを大幅に拡大するよう提言しているのだ。
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