デヴィッド・リカード (David Ricardo), 1772-1823

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 すばらしいイギリスの経済学者デヴィッド・リカードは、経済理論の発展において最も重要な人物の一人だ。かれは政治経済学(=今の経済学)の「古典」体系を厳密に構築して記述した。19世紀を通じて経済思想を支配していたのはリカードの遺産だった。

 デヴィッド・リカードの家族は、イベリアのユダヤ教徒の家系だったけれど、それが18世紀初期に一連の迫害の波にあって、オランダに亡命した。リカードのお父さんは株屋さんで、リカードが 1772 年に生まれる直前にイギリスに移住した。デヴィッド・リカードは三男だった(17 人兄弟の中で!)

 14 歳で、オランダでちょっと学校に通わせてから、リカードのお父さんはリカードをロンドン証券取引所でフルタイムで雇い、ここでリカードはこの業界のツボをすぐに身に着けた。21 歳で、リカードは一家とその正統ユダヤ教信仰と袂を分かち、クウェーカー教徒と結婚することにした。でも知人の助力と、それまで築いてきたロンドン・シティにおける高い評判のために、リカードは政府証券のディーラーとして自営できるようになった。そしてすぐにものすごいお金持ちになる。1814 年、41 歳のリカードは「自分自身のすべての欲望と、身の回りの人々のまともな欲望をすべて満たすのに十分なほどお金持ちになった」(ミルへの手紙、1815) ので、シティの商売から引退して、Gatcomb Park の邸宅を買い、田舎紳士となった。

 親友のジェイムズ・ミルにせっつかれて、リカードは 1819 年に、アイルランドの郡を代表する無党派としてイギリス議会に選出され、1853 年の死までその任につく。議会では、当時の通貨と商業の問題にもっぱら関心を持っていた。特に公債の償還、資本課税、穀物法廃止なんかだ。 (cf. トマス・ムーアCash, Corn and Catholics についての詩を参照)

 リカードの経済への関心は、20代後半にアダム・スミスの『国富論』を読んだときに始まった。頭脳明晰でおしゃべりなリカードは、自分の経済に関するアイデアを友人たちと話し合った。特にジェイムズ・ミルとはよく話したのだった。でもリカードがそれをきちんと書こうと決断したのは、ミルが熱心にしつこくそれを薦めたからだった。とりかかったのは 1809 年で、通貨の問題について新聞記事を書いていたが、それがやがてかれを当時吹き荒れていた金塊主義論争 に引っ張り込むことになった。その中でかれは 金塊主義の支持者で、紙幣を金に兌換できる仕組みの復活を支持した。その議論を説明したパンフレットを 2 本 (1810, 1811) 書いたが、その中でかれは後に、お金の理論への 「古典的アプローチ」と呼ばれるものを説明している。

 まさにその論考で、リカード派また「一般供給過剰」――あらゆる財が過剰に供給されること――が経済の中で起こることはあり得ないと論じた。これでトマス・ロバート・マルサス がリカードに反論することになった。この論争は、お互いの大量のやりとりの中で続いて、リカードがマルサスの『原理』(1820) について書いた一連の小論となった(これは後に『マルサスについて』と題して死後出版された)。リカードはセイの法則支持の立場をがっちり守り抜いて、マルサスの消費不足説は理論的にあり得ないと否定した。でも経済ドクトリン面での意見の相違にもかかわらず、両者は個人的に親しくなり、伝説的なまでの友情を育んだ。リカードは、マルサスに投資アドバイスまで流している――一番有名なのは、リカードがウォーテルローの戦いでのイギリス勝利を予測して、債券市場に投資しろ、と言ったものだ。相変わらずの保守的な牧師だったマルサスはそれを断った。リカードは、いつもながら大もうけした。

 1815 年、リカードは画期的な『利益論』(Essay on Profits) を発表した。ここでかれは地代格差論と、土地の耕作における「収穫逓減の法則」を導入した。偶然にもこの原則は他にもマルサス, ロバート・トレンス、エドワード・ウェストが独自に同時期に発見していた(もっと驚異的なことに、この全員が自分の論考を1815年2月に3週間と間をおかずに発表している!)。1815 年の『利益論』で、リカードは財が一つ(穀物)の経済における分配の理論を展開した。賃金が「自然」な水準だと、利益率と地代は農業セクターではその剰余分として決まる、と論じた。それからアービトラージ(さやぬき、裁定) の概念を使って、農業利益と賃金率は工業セクターでの利益や賃金率と等しくなる、と論じた。この理論の中で、かれは賃金上昇は価格上昇にはつながらず、単に利益が下がるだけだ、と示した。

 ケチをつけるなら、1815年の論考にはまともな価値の理論がなかった。財が一つのモデルだと、これはあまり問題にならない。でもマルサスの批判を受けて、財が複数の経済だと、地代や利益が剰余分となるには、どこかで価格がきっちり決まる必要がある、ということに気がついた。その見事な論考『政治経済と課税の原理』(1817) で、リカードはついに価値理論をきちんと述べて、それを分配理論に統合した。

 リカードにとって、適切な理論とは「労働を内在させた」価値の理論、略して LTV だ。つまり商品の相対的な「自然」価格は、その生産に必要な相対的労働時間で決まってくる、というわけ。このため、1817 年の著書はアダム・スミスによる価値理論――「労働主導」の価値と「総和型」価値理論――の批判で始まっている。だってそれだと、価値は賃金の関数になり、つまりは所得分配の関数として決まるということになるじゃないか、というわけだ。リカードにしてみれば、そんなのは認めがたかった。かれの見方では、価値は分配とは独立して存在するものだから、「労働を内在させた」価値しか筋が通らなかった。

 でもリカードは、資本の話を含めるとここで問題が起きることに気がついた。つまり、産業によって労働者一人あたりの資本量(訳注:資本ってのは使う機械とか設備とかだと思ってくれい)がちがうので、利益率は産業ごとにちがってくる。ここですべての産業の利益率が同じだと仮定すれば(自由競争だとそうなる。だって、なぜ好き好んで利益の低い=儲からない業界にいたがるね?)、数学的には相対価格はいまや賃金によって変わることになる――これはリカードが批判したスミスの理論そのものじゃないか! リカードは、自分の労働価値説はすべての業界で資本集約度が同じ場合にしか成立しない、ということに気がついた。もしそうなら自分のかわいい理論も眉唾になってしまう。

 リカードは二つの方法でこのジレンマから抜け出そうとした。まずは経験則的な議論で、企業は投入した労働とほぼ比例するくらいの資本をつっこむのだ、というもの。これだと、利益が全部の産業で同じだと仮定しても、出てくる価格は LTV で出てくるものとそんなにちがわない。スティーグラー (1958) はこれを、リカードの「93% 労働価値説」と呼んだ。第二の方法は、労働者一人あたり「平均」資本を持った財を探す、ということだった。これの価格は労働を内在させた価値を反映し、分配が変わっても変化しないはずだ。かれはこれを「価値不変基準」と呼んだ。この「標準」商品を見つけられたら、後の分析は簡単だ、とリカードは論じた。たとえば、技術が変わったら、標準商品の価値変化を調べて、その変化を資本構成がどれくらいずれているかに応じて他の商品にもあてはめられる。頑張って探してはみたけれど、リカードはこの標準商品をついに見つけられなかった。死んだとき、その机には「価値の不変基準」と題する未完の論文がおかれていた。やがてカール・マルクス (1867) がこれを解決する一つのやり方を提案したけれど、まともな解決策はピエロ・スラッファ (1960) を待つしかない。

 価値の話でちょっとつまづいたとはいえ、リカード (1817) はどんどん議論を進めた。価格が(まあ大ざっぱとはいえ)LTV でかたまったので、かれはかつての分配理論を述べなおした。経済を、地主(地代収入を贅沢品に使う)と労働者(賃金収入を必需品に使う)と資本家(利益収入のほとんどを貯金して再投資する)にわけて、リカードは利益の規模が土地耕作の規模と歴史的に与えられる実質賃金の剰余として決まってくる、ということを示した。そしてかれはそこに成長理論を追加した。具体的には、上記のような形で利益が決まってくれば、資本家の貯蓄、蓄積と労働需要の成長も求まるということだ。これはこんどは人口を増して、もっと多くの土地(ただし質は下がる)が耕作されるようになる。経済が成長を続ければ、分配法則にしたがって利益はやがて地代と賃金によって押し出される。極限では「定常状態」になって、資本家たちはほとんど利益を出せず、それ以上の蓄積はおきなくなる、とリカードは論じた。

 リカードは、収穫逓減の法則をおさえてしばらく蓄積を継続させそうな二つの条件を指摘している:技術の進歩と貿易だ。技術の進歩について、リカードの見方はどっちつかずだった。一方では、技術進歩が土地耕作の限界生産を押し上げて、もっと成長を可能にする、ということを認識していた。でも『経済学原理』の有名な第 31 章(これは 1821 年の第三版で追加された)では、技術進歩は労働を節約する機械の導入を必要とする、と書いている。これは買うのも設置するのもお金がかかるので、賃金のためのお金が減る。この場合、賃金は下がるか、労働者がクビになるかのどっちかだ。一部の失業労働者は追加の利益がもたらす大きな蓄積によって救済されるかもしれない。そして失業者の山が残るかもしれない。それは賃金引き下げ圧力となって、労働階級全般が悲惨な思いをする。技術進歩は、リカードにとってはそんなにありがたいものじゃなかった。

 貿易について、リカードは有名な比較優位の理論をうちたてた。二つの国(ポルトガルとイギリス)と二つの商品(ワインと布)という有名な例を使って、リカードはポルトガルが両方の商品について絶対的なコスト優位性を持っている場合でも、貿易したほうがいいんだ、と論じた。リカードの議論は、両国が生産において「比較的」なコスト優位性を持ったものの生産に完全に特化し、それ以外のものを外国に頼るようにすれば、貿易でメリットがあるんだというものだった。初期条件の差があるということは、労働価値説は国境をまたがっては成立しない、という想定だということに注目。それは当然だ、とリカードは論じた。生産要素、特に労働は国境を越えては移動できないからだ。成長で見ると、賃金財(贅沢品ではなく)が国内コストよりも低い値段で輸入されれば、貿易はさらなり蓄積と成長をもたらすかもしれない――そして実質賃金低下と利益の増加をもたらすかもしれない。でも主要な影響としては、全体的な所得水準はどっちの国でも高くなるのだ、とリカードは論じた。

 1817 年の論考で、リカード派経済学を空前の理論的洗練度にまで高めた。かれは 古典体系をそれまでのだれよりも明瞭かつ一貫性のある形で定式化した。その功績のため、イギリスでもその他のところでもおおいに支持を得た――それがいわゆる「古典学派」または「リカード派」 だ。でも、その弟子たちはリカードの理論をほとんど進歩させることがなかった。多少なりとも意義深い洞察を追加したのは、ジョン・スチュアート・ミル (1848) とカール・マルクス (1867-94) くらいだろう。

 リカードの理論はだんだんはやらなくなって、1871-74年の限界革命の後でダラダラと緩慢な死を迎えることになった。でも世界の片隅では研究が続いていた (例: ウラジーミル・ドミトリエフ (1898))。その後かなりたってから、ピエロ・スラッファ (1960) はやっと「価値の不変尺度」を解決してリカード理論への関心を再燃させた。「ネオ・リカード派」研究プログラムは、今日も進歩を続けている。

デヴィッド・リカードの主要著作

デヴィッド・リカードに関するリソース


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