文学者としてのほうが有名ではあるけれど、トマス・ド・クィンシーは リカード古典派 の頑迷にして雄弁なる支持者だった。リカード理論との出会いは、有名な『英吉利阿片服用者の告白』に描かれている:
かようなる痴愚の状態において、我が輩は戯れに経済に関心を向けたのであった。わが向学心は、かつてはハイエナのように活発で落ち着かぬものであり、どうやら(我が輩が多少なりとも存命中であれば)完全なる惰眠状態にまで沈下する能わぬようだ。そして経済学は我が輩のごとき状態にある人物に、以下のような長所を提供してくれる――すなわちそれが本質的に有機的科学であり(即ち全体に働きかけぬ部分はなく、全体はまた各部分に対し、またそれを通じて再び反応するのである)、しかしながらいくつかの部分は分離して単体として検討可能であるのだ。この時点での我が輩の力の虚脱ぶりは多大なものではあったが、己の知識を忘れ去ることはできなかった。そして我が向学心はあまりに長きにわたり、謹厳なる思想家、論理、そして知識の巨匠たちになじみすぎたために、現代経済学者どもの主流の完全なる貧相ぶりについて気がつかずにはいられなかったのである。我が輩は 1811 年に経済学の多くの分野に関する大量の書物やパンフレットを検討することとなったのである。そして我が輩の望みに応えて、M. (マーガレット) は時にもっと最近の著作、あるいは議会論争の一部を朗読してくれるのだった。我が輩の見たところ、そうしたものは人間知性のカスにして廃液もいいところであった。そしてまともな頭を持ち、学者的な器用さで論理を構築する訓練を受けた人物であればだれでも、現代経済学者どもの学派をまるごと受けて立ち、そいつらを指先でひょいとつまんで天と地の間に放墜してしまうか、あるいは婦人の扇を使ってこ奴らのカビ頭を粉砕してしまえることも見て取った。その後かなりたって 1819 年に、エジンバラの友人が我が輩に リカード氏の 著書を送ってくれた。そしてこの学問における数人の主導者の運命を見通した我が予言者的な予測を思い返すにつけ、我が輩は最初の章を読み終わる前にこう叫んだのであった。「貴殿は偉い!」驚異の念と好奇心は我が輩の内で長きにわたって死に絶えていた感情であった。しかし我が輩はこのとき再び驚愕したのであった。己が本を読むという努力を行うほどの刺激を再び受けたことで自分に驚愕したのであり、それより遥かに当の本に驚愕したのであった。この深遠なる作品が十九世紀中のイングランドで書かれたなどということがあり得ようか? そんなことが可能なのか? イングランドではもはや思考は絶滅したかと思っていたのに。たった一人のイングランド人、しかも学術界にはおらず、商人および議員としての懸念に圧殺されている人物が、ヨーロッパ中の大学すべてと一世紀の思考をかけても、髪の毛一筋もども前進させられなかったことを実現させたのか? 他の書き手はすべて、事実や文献のすさまじい重みに潰され飲み込まれてしまった。リカード氏は悟性そのものから先験的に、材料のとらえどころなき混沌に対して一筋の光を初めてもたらす法則を演繹し、それまでその場しのぎの議論の寄せ集めでしかなかったものを、何よりも永続的な基盤の上にしっかりと立つ、まともな風体の学問に構築仕立てたのである。
(Thomas de Quincey, Confessions of an English Opium- Eater, 1821 edition, p.99-100)
(後の 1856 年版はこの部分を大幅に改変している).
ド・クインシーの生涯は、不運の連続だったがそのほとんどは自業自得ではあった。マンチェスターの繊維商人一家に生まれたが、父親に早い時期に死別したのがケチのつき始めだった。初期にすばらしい成績をあげつつも、17 歳にして家出、ロンドンの道ばたで乞食をして暮らす。1803 年に家族の元に戻り、翌年にはオックスフォードのウスター大学に入学。この頃、イギリスのロマン主義詩人ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・テイラー・コールリッジと親交を深め、アヘンに手を出すようになる。1808年にはオックスフォードから落ちこぼれてグラスミアに移住した。これは湖沼地帯で文学上の友人たちの住んでいたところだ。アヘン中毒が重くなるにつれて、だんだんワーズワースたちとも疎遠になった。
1816 年に、ド=クインシーは自分の私生児の母親マーガレット・シンプソンと結婚した。1818-9 年には、 Westmoreland Magazine の編集者としてちょっと働いたが、クビになって行き場のない Blackwood's Edinburgh Magazine に参加。1821 年には『英吉利阿片服用者の告白』を刊行――これはかれの最大のヒットとなった。その後一生、ド=クインシーは各種のテーマについて――文芸批評、神学、哲学、政治等々――強烈な記事を同時代のいろんな雑誌に書き殴り続けた。Blackwood's, London Magazine, Tait's, Hogg's など。
経済学もそのテーマの一つだった。1823-4 年に、ド=クインシーはデビッド・リカードの著作を検討して、当時経済学における大論争となっていた勝ちの理論とマルサス的人口ドクトリンの話題に参加した。 ド=クインシーの『三人の法学院者の対話 (Dialogues of the Three Templars)』(1824) はとても見事なリカード理論擁護だ。ただしリカードを妄信していたわけではない。穀物法廃止にはあまり賛成ではなかったし、収益が下がるという「不可避な」傾向があるという考えにも反論した。そしてリカード派ドクトリン擁護でも、トマス・カーライルとは親密な友情を育んだ。
その間ずっと、ド=クインシーはますます深く借金と問題にはまりこんでいった。ド=クインシーは 1830 年にエジンバラに引っ越したが、債権者や敵たちはすぐに追いかけてきた。借金未払いで 1831 年には有罪となり投獄。1833 年にはもう二回有罪となり、1834年には 3 回有罪となって、しばらくは債務者保護の下に逃げ込まざるを得なくなる。一方で、その間に息子二人が死亡――1832 年には 2 歳の息子が、1834 年には 18 歳の息子が死んだ。1837 年には妻が死亡し、かれはさらに借金で二回有罪宣告を受ける。ド=クインシーはまたもや大量にアヘンを使い始め、もっと借金にはまりこんで、グラスゴーに夜逃げした。不運に追い打ちをかけるように(そしていささか皮肉めいた話ではあるが)、もう一人の息子がシナとのアヘン戦争で1832年に死亡。
1843 年に、もうボロボロのド=クインシーはラスウェイドの小屋に引退した。ここでかれは経済学論考 The Logic of Political Economy (1844) を書き上げた。1845 年には『英吉利阿片服用者の告白』の続編 Suspiria de Profundis が刊行された。1850 年にはエジンバラに戻り、同時期にイギリスとアメリカの出版社がそれぞれ独立にド=クインシー作品集をまとめはじめた。ド=クインシー作品集は広い賞賛を集めて、死ぬ前にかれが心底欲しがった喜びを多少なりとももたらしてくれたのだった。
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