フランソワ・ケネー (Françis Quesnay), 1694-1774.

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Portrait of F. Quesnay

 慎ましい生まれのフランソワ・ケネーは、医術を学んで、ルイ十五世の宮廷で医師となり、重農主義者 あるいは économistes として知られる 啓蒙主義一派のリーダーとなった。11 歳になるまで読み書きもできなかった労働者階級の少年は、やがて科学アカデミーに選出されて、紳士の弟子たちから「ヨーロッパの孔子」「現代のソクラテス」と称揚されるようになる。

 メレという村で労働者過程に生まれたケネーは、13 歳の時に孤児になった。家庭用医薬便覧を使って読むことを覚えて、すぐにさらなる本とさらなる勉強に対する貪欲さを発揮。しばらく見習い、少々Saint-Côme で学校教育を受けて、パリの雑貨屋の娘と結婚してから(社会的な身分は大幅に上昇だ)、ケネーはマンテの田舎床屋兼外科医として開業した。かれの(急速な)自己教育と技能はいやでも目立ち、推薦に推薦を重ねるかたちでかれはだんだん社会を登り、地元貴族に仕えるようになった。おかげで、読書や勉強や著述をする時間がもっとできた。

 ケネーの外科に関する多数の著作がかれの評判を確固たるものにした。かれは外科の地位を医学にまで高める(医師業界は露骨にいやがったのではあるが)ことに非常な熱意を燃やしていた。1743 年の勅令で外科医と床屋が分けられて、後に王立外科学校が創設されたのも、一部はケネーのおかげだ。(訳注:それまでは、外科手術は同じカミソリだからということで床屋がついでにやっていたのである)。

 1749 年に、強力な推薦状を武器として、ケネーはルイ十五世王の愛人マダム・ポンパドールの私的医師となった。ケネーはヴェルサイユに移り住み、ついには最高権力集団に取り入ったわけだ。1751 年には科学アカデミーに選出され、philosophesに加わった。かれらは、大医師たちに果敢に立ち向かったこの一介の田舎外科医をおもしろがって迎えた。

 ケネーが経済学に興味を持つようになったのは 1756 年で、田舎出身であることを活かせるんじゃないかと、ディドロとダランベールの『百科全書』に何本か寄稿してくれと言われたためだ。ケネーはマレシャル・ド・ヴォーバン (Maréchal de Vauban)、ピエール・ド・ボワギルベール (Pierre de Boisguilbert)、リチャード・カンティリョン (Richard Cantillon) の著作に没頭して、これらの内容を全部混ぜ合わせて、やがて有名な経済理論がだんだんとできあがってきたのだった。

 1757 年、かれはミラボー侯爵(大ミラボー)に会った。大ミラボーは、初のケネーの信奉者となった。続いて メルシエル・ド・ラ・リヴィエール (Mercier de la Riviere) とデュポン・ド・ヌムール (DuPont de Nemours)、その他数名。1758 年にケネーは『経済表』(Tableau Économique) を書いた――これは有名な、経済セクター間の所得の「ジグザグ」フロー描写で知られる。この『経済表』はケネーのドクトリンを説明するもので、重農主義一派の基礎文献となった――そしてこれは、マルクススラッファレオンチェフ、現代一般均衡理論などの、多セクター投入産出体系の先祖となった。 (具体的にはケネー『経済表』分析を見てね)。

 ケネーは、農業こそが produit net (純生産、あるいは生産コストを上回る産出余剰)の唯一の源だという原則から話を始める。かれは、製造業や商業は「不毛」だと論じた。それはこれらの産業では(かれの見方では)産出の価値は投入の価値に等しいからだ。ケネーによれば、土地だけが投入よりも多くのものを生み出す。そして国の富は、その純生産の規模によるのだ、というのがケネーの議論だ。

 ケネーは、当時まだフランス宮廷で力を持っていたコルベール重商主義ドクトリンを否定した。ケネーから見ると、これらは農業ではなく産業や商業の支援にばかりかまけていたからだ。「自由放任」主義支持者のヴァンサン・ド・グルネー (Vincent de Gournay) に影響を受けて、ケネーは農業生産を律していた多くの中世的規制を撤廃して欲しいと願った。そうすれば経済は「自然状態」を実現できるからだ。経済の自然状態というのは、経済セクター間、ひいては社会階級間のバランスのとれた循環フローで、純生産を最大化するものだと考えられた。この概念において、ケネーは人間の血液循環と人体のホメオスタシス(恒常性)とのアナロジーを見て取った。

 ケネーは ordre naturel (自然秩序) と ordre positif (望ましい、つまり人間が理想化した秩序) を区別した主役でもある。ケネーの議論では、よい政府は「自然秩序」が実現できるように「自由放任」政策にしたがうべきだ、とのこと。

 ケネーはさらに、 1766-8 年には Journal de l'agriculture, du commerce et de financesEphémérides du Citoyen などに、 M.N., M.H., M.A., M. de Isles, 等々のペンネームを多数使って、ものすごい数の経済論文を執筆する (時にはこうした筆名同士で自作自演の誌上論争までやった)。一番明快なのは、1766 年の formule 論文だろう。でも、ケネーのアイデアにもっと体系的な雰囲気を持たせたのは、ケネー体系に関するミラボー (1760, 1763) や メルシェル・ド・ラ・リヴィエール (1767) 、デュポン・ド・ヌムール (1767) などによる紹介、コメント、解説だろう。この人たちのケネー崇拝ぶりは、盲信もいいところだった。

フランソワ・ケネーの主要論文

フランソワ・ケネーに関するリソース


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