ヴルフィレド・パレート (Vilfredo Pareto), 1848-1923

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Portrait of V. Pareto

 イタリアの経済学者ヴルフィレド・パレートはローザンヌ学派指導者の一人で、新古典派革命第二世代の代表者だ。存命中はほどほどの影響力にとどまったが、一般均衡理論に対する「嗜好と障害」アプローチは1930年代のパレート復興で蘇り、その後経済学に大きな影響を与え続けている。

 ヴィルフレド・パレートは1848年にパリで、イタリア人貴族の家庭に生まれた。トリノ大学で数学と機械的な均衡の発想に惹かれ、その後フィレンツェで鉄道会社や製鉄会社の重役を務めたが、1889年に退職、文無しのロシア娘と結婚してフィエソーレに隠居して執筆活動に入った。フィレンツェ時代には政治活動を盛んに行っていたために当局に目をつけられ、かなりの苦労を強いられたものの、イタリアの新古典派経済学の星だったマフェオ・パンタレオーニの知己を得たことで、ワルラス派経済理論を学び、関連論文を発表するようになった。

 折しもそのレオン・ワルラスローザンヌ大学での後継者を探しており、パンタレオーニに推挙を受けて、パレートが1894年にその座を次ぐこととなった。ただしワルラスとパレートは、政治的見解や気質の面で正反対で、両者は必ずしも仲がよいわけではなかったという。

 パレートは政治活動も続けつつ、三巻に渡る講義録『政治経済学講義』 (1896, 1897) を刊行した。決して数式による純理論の書ではなく(数式はむしろ脚注などに追いやられている)、手法論や社会学的な考察も大きな割合を占める。おそらく最も重要な経済学的考察は、所得分配の「パレート法則」だろう。あらゆる時代と国で、所得と富の分配は規則正しい対数関数であらわされるという:

\[\log{N} = \log{A} + m \log{x}\] ここで\(N\) は、\(x\) より所得の高い人々の数であり、\(A\) と \(m\) は定数である。長年にわたり、パレート法則は実証的にきわめて頑健であることが示されている。

 それ以外にも、効用概念に対する批判(人は自分に「望ましい」ものを選ぶのであり、必ずしもそれは当人の厚生に関係しない)や、分配の限界生産性理論批判、均衡概念からくる社会的な経済の「計算可能性」示唆などは重要な論点となっている。

 1906年にパレートは大著『政治経済学マニュアル』を発表。純粋経済学の大著で、これによりパレートはワルラスの影から飛び出した。『講義』とはちがい、純粋経済学を数学的に記述することが重視された(特に1909年の改訂フランス語版)。ワルラスの方程式はまだ見られるが、重視されているのはむしろ、個人の「目的と制約」の解として均衡を実現することだ。このため、 エッジワースの無差別曲線 (1881) が多用されている——消費者理論でも、そして目新しい点としては生産者の理論でも。「エッジワース=ボウリー」ボックスと(誤って)呼ばれるようになったものが初めて登場するのも、この「マニュアル」だ。

 アーヴィング・フィッシャー (1892) と同じく、パレートも明示的な効用はなしでもすませられることに気がついた。原初的な指向を示すのは選好であり、効用は選好序列の表現にすぎないというわけだ。これによりパレートは現代ミクロ経済学を創始しただけでなく、経済学と 効用主義の「卑しい連合」を破壊した。かわりにかれはパレート最適の概念を導入した。これは万人について、だれかの厚生を増すときに他人の厚生を減らさなくてはならないときに、社会は「最大の ophelimity (これはパレートが効用にかわって導入した概念)」を実現している、という発想だ(詳細はパレート一般均衡体系の説明を見てね)。

 1900年にパレートは、ベネデット・クローチェとの論争を経て経済学の有用性に不満を抱き、人間行動が必ずしも合理的ではないことが原因と考えた。ここから社会学的な研究が始まった。1907年にはローザンヌを退職して大量のネコたちとチェリグニーに隠居し(妻にはすでに逃げられていたが、別のフランス人女性が終生の伴侶となった)社会学の大著『一般社会学考察』(Trattato di sociologia generale, 1916) を発表した。人間は不合理な性向で行動し、後付でそれを合理化する、という基本的な発想に基づき、パレートは人を第一種(革新的)と第二種(保守的)に分類する。社会はこの二種類の人々の混合で決まるが、この両者は長期的には均衡するという。

 パレートはそれ以前にも、1900年の論説でマルクス経済学を始めとする各種イデオロギーが、あるエリート層を別のエリート層に置き換えるための茶番でしかないと看破し、社会主義の階級闘争概念は支持したものの、社会主義革命で階級が消えるというマルクスの主張を徹底批判していた。その後も社会学について二冊本を書き (1920, 1921)、その半ば神秘的な議論はイタリアのファシスト(ムッソリーニも含む)を惹きつけ、かれらの自己正当化に利用されることとなる。パレートはファシスト運動にあまり関心はなかったが、ファシストによる言論統制には反発した。パレートはムッソリーニ政権樹立後10か月で死亡し、ファシスト支配の悪い面を見ずにすんだ。

 ファシズムとの関係にもかかわらず、パレートの社会学的な業績は真剣に受け止められ、人気の高まりと、批判的な検討の時期とを繰り返している。フロイト心理学はパレートの概念の一部をかなり重視している。パレートに対する批判は、その主な主張に対するものではなく。むしろその粗雑さ、単純さ、不完全性が主な原因だ。

 だがずっと大きな影響があったのは、パレートの経済学だ。パレートは ローザンヌ時代にも学派を形成し、内外に支持者を持っていた。その最大の影響は、死後1930年代と1940年代の、「パレート復興」とも呼ぶべきものだ。需要に対する「嗜好と障害」アプローチはジョン・ヒックスと R.G.D. アレン (1934) が復活させた。また厚生経済学の検討はハロルド・ ホテリングやオスカール・ランゲと「新厚生経済学」運動が採用した。最後に、共産社会の効率性に関するパレートの考察は、 パレート派オーストリア学派社会主義計算論争で採り上げられた。

ヴィルフレド・パレートの主要著作

ヴィルフレド・パレートに関するリソース


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