ハリエット・マルティノー (Harriet Martineau), 1802-1876

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Portrait of Harriet Martineau

 フランスユグノー派を出自に持つハリエット・マルティノーは、当時のほとんどの女性に比べて厳格で正規の教育を受けている。父親はノーウィッチの繊維製造業者で、娘が十分な教育を受けられるよう腐心した。だが、彼女は耳が聞こえず病気がちだった。1826 年に父親が死んで、彼女は針仕事と、機械や労働といったテーマで Globe に執筆して母と自分を養わねばならなかった。この時期にはアダム・スミスやデヴィッド・リカードの著作は知らなかったが、かなり早期に独自に経済問題に興味を抱くようになった。政治経済学に関する大量の文献の存在を知ったのは、1827 年頃にジェーン・マーセットの一般向け著作を読んでからのことだった。

 有名な 1834 年の著書は、実質的には経済問題に関する一連の小冊子として刊行された。マーセットとはちがい、彼女はそれをお話で「窒息させよう」とはせず、一連の系統だった(つまりはかなり退屈で鈍重な)記述で明らかにした。彼女への最大の影響を敢えて挙げるなら、ジェームズ・ミルだ――ミルの主題記述の順番を彼女は基本的に遵守している。この本が売れたため、彼女は財政的にも安定し、文芸的にも有名となった。マルティノーは経済学において根っからの「リカード派」であり、哲学は「必要主義者」だった(この一派は社会を救うのは教育だと考えた)。また、賃金資金理論の教条的な支持者でもあった。

 病気がちで耳が聞こえなくても、マルティノーは精力的に執筆を続け、奴隷廃止運動支持や救貧法設立指示といった、悪名高い大義を支持し続けた。自由放任支持者で直接税支持ではあったが、労働組合結成の権利やスト権も擁護した(当時の政治経済学者としては珍しい)。当時ですら、ジョン・スチュアート・ ミルのようなリベラル派はマルチノーがリカード派政治経済学を現状追認教義に翻訳したやり方を見てゾッとしたという。

 歳を取るにつれて彼女は大胆になった。いまや古典となった 1837 年の1851 年論考『アメリカの社会』は、アメリカ社会の厳しい批判だった。反宗教的な 1851 年論考はさらに議論を招いた。1839 年には小説にも手を染め (Deerbrook) さらに歴史に向かい (1841, 1849) やがて催眠術にまで手を出した (1844)。1853 年のオーギュスト・コントCours de philosophie positive 翻訳は、コントの思想をイギリスに導入するのに大きな役割を果たした。1830 年代以降は、マルティノーは若き日の情熱である政治経済学にはたまにしか戻ってこなかった。

ハリエット・マルティノーの主要著作

ハリエット・マルティノーに関するリソース


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