アドルフ・ロウ (Adolph Lowe), 1893-1995.

アドルフ・ロウ(本来はLöwe, レーヴェ) は昔から 社会研究ニュースクールの黒幕だ。第一次世界大戦に従軍したロウは、戦後のドイツ軍解体計画に協力し、ドイツ経済の国有化を目指した社会主義化評議会に参加した。1922 年にはワイマール共和国の経済省に入った。
1926 年にロウは キール世界経済研究所に参加した。ここは景気循環に関する研究専門の機関で、他にはフリッツ・ブルヒャルト、ゲルハルト・コルム、ヤコブ・マルシャック、ハンス・ネイサーなどがいる。かれの有名な 1926 年 WWA 論文は、当時の景気循環文献と均衡経済学理論との分裂に関する厳しい批判で、経済変動の内生的理論を作ろうと呼びかけていた。
マルクスの拡大再生産方式から発達した、 中欧の伝統に基づいて、ロウは景気循環論に動きを導入する新しいやり方を思いついた。ロウは、循環の過程で多セクター構造が変化することを重視した。これは 1926 年論文で述べられているが、若きフリードリヒ・ハイエクの景気循環理論に先立つものだ。ロウ自身がその後展開した研究、特にある成長均衡から別の成長均衡への「トラバース」の分析 (1952, 1954, 1976) も、起源はこの 1926 年論文にある。
ロウは 1931 年にフランクフルト大学に惹かれ、そこでホルクハイマー、アドルノなど「フランクフルト学派」と有益な接触を持った――その影響は最後まで残った。コスモポリタンで社会民主派、ドイツ社会主義化評議会の元メンバーだったロウは、ナチスドイツにおいてはきわめて目障りだったので真っ先に排斥された。そこで 1933 年にドイツを離れてマンチェスター大学に修飾した。イギリスでも――帰化したし過去の歴史もあったのに――「敵性外国人」と見なされたので 1940 年にイギリスを離れた。Price of Liberty (1936) にはイギリスについての印象が書かれている。
フランクフルトとマンチェスターにいるうちに、ロウはキールで実施した景気循環の研究から離れ、社会哲学や経済学の手法論に感心を向けた。有名な 1935 年の『経済学と社会学』(Economics and Sociology) は、まさにその副題である「社会科学間の協力の訴え」そのものだった。この本やそれに続くいくつかの論文 (1936, 1942) で述べたように、伝統的な経済均衡理論は最終的には、機械的合理性といういささか怪しげな概念に依存しているだけでなく、個人行動の一貫性と均質性の想定を前提としている。ロウに言わせると、この見方は非現実的なだけでなく、無用に制約的で、経済的な動きの分析においておもしろい(そして不可欠な)ものをほぼすべて取り除いてしまう。 個別経済行動の普遍性という想定に関するロウの疑念は、前世代のドイツ歴史学派の懸念を反映したものでもあった。この点で経済学と社会学との有益な共同作業を求めるロウの希望が発展して、大学の役割や構造に関する興味 (1937,
1940) へとつながった。
ロウは「世界情勢研究所」所長として 社会研究ニュースクールにやってきた――これはかつての キール研究所復興を狙ったものだった。ロウはこのために精力的に働き、おかげで経済手法や社会構造に関する研究は一時的に中断された。
経済学への「機械的アプローチ」を攻撃する 1951 年論文は、ロウの復帰を示すものとなった。今回は、戦前の疑念がもっとはっきりした形を取るようになった――つまりその後の活動を支配する二つの問題、「経済的トラバース (economic traverse)」と「道具的分析 (instrumental analysis)」だ。この概念の双方の根底にあるのは、行動パターンの変化と不均質性についての認識――つまりはロウの戦前の考察で核心にあったものとなる。もしこれを認めるなら、正統経済理論のアプローチは実質的に無意味となる。というのも検討の対象が絶え間なく変わっていることになるからだ。すでに述べたように、 キール時代の研究にもすでに含まれていた「トラバース」の分析は、1950 年代になってやっと本格的に形成された (e.g.
1952, 1954, 1955) もので、ある成長経路から別の成長経路への移行という問題を扱い、それが意味する調整経路や、その変化を生み出し、またそこから含意されるような行動的、経済構造的な変化を詳述するものだった。つまりトラバースの背後にある力学は、社会経済的進化と関連したものだとロウは考え、それは経済的な減少としてのみ考えてはならないし、考えることもできない、と主張した。進化と成長の関係についても考えを発展させ続け、特に行動の変化や行動パターンの複数制が経済プロセスに与える役割を示し続けた。その立場を最もうまく述べているのは、見事で刺激的な On Economic Knowledge (1965) だろう。
ロウの「道具的分析」は、構造変化に伴う扱いにくさを避ける方法として、経済政策を扱うときに既存の行動パターンと経済分析の両方を組み合わせるような経済学を考えて見ようと提案する。ロウの見方では、行動は内生的だ――経済構造にも経済政策にも。 あらゆる経済分析や経済対応策は、特定種類の行動を前提にしたものなので、経済政策は最終的には行動的なしつらえを「設定」しつつ、その行動が意味する「適切」な理論を使うという二重の作業に取り組む必要があるのだ。
トラバースと道具的分析に関する研究は、その二大著作である On Economic Knowledge (1965) と The Path of Economic Growth (1976)、および論文 "Toward a Science of Economics" (1969) でもっともうまく述べられている――だが経済学者のほとんどには、それはちんぷんかんぷんだった。経済学者たちの多くは一八世紀以後の思想にあまりなれていないので、ロウを「反理論家」「権威主義者」あるいは単なるトラブルメーカーとして糾弾するだけだった。もちろんロウはこのどれでもない(最後はちょっとあるかもしれない)。まずすでに述べた通り、かれは自分の体系において、経済理論に中心的な役割を与えている――というか、むしろロウは経済理論をあまりにあれこれ引き合いに出しすぎている。さらに、ロウは自分の「道具主義 (instrumentalism)」が社会主義政策肯定論にはほど遠いものだと明確に述べている。ロウが強調しているのはその正反対だ。かれは、自由というのは最終的には制約されたシナリオでしか可能ではないと強調している――つまり、自由は制約を使ってしか定義できない、ということだ。ロウの「制約的自由」と「自発的従属」という概念は、社会学者や哲学者には昔からお馴染みの標準的な発想だ――いやそれより前からもあった (cf. ゲーテ)。
実は現代から見れば、ロウの立場はほとんど当たり前のものだ。経済行動が変わることを認識すれば、政策は行動的な考察も加えねばならない。経済政策が、個人行動を動かすパラメータを設定できるということを認識して、ロウは計量経済学的な政策に立案に対する後の「ルーカス批判」とも共通する論調の提案を行っている。ロウがルーカスより一歩先んじているのは、そうしたパラメータ自体も政策の道具として考えるべきだと主張していることだ。これはたとえば金融政策やインフレにおける「評判」(信頼)論争などや、まさに公共選択学派の主張を考えれば、特に過激な提案というわけでもない。だから今から見れば、1960年代や1970年代にロウに投げつけられた「全体主義の萌芽」といった糾弾はまったく根拠のないものだ。だが冷戦時代の人々にとって、ロウの提案は気持ちのいいものではなかったのだ――ロウがみんなになじみ深い事例を示唆したときでも(例:反トラスト法がなければ自由放任を維持することはできないのでは?)
経済学者たちの中でただ一つアメリカ制度学派はロウの分析が自分たちの研究と共鳴していることを認識した――そして正当にも、ヴェブレン=コモンズ賞を授与した。受賞講演 (1980) で、かれは道具的分析についての立場を繰り返した――そしてあらゆる分野の経済学者に、理論または実証を協調しすぎるといって叱責した。一世紀近く前のヴェブレンと同様に、ロウは理論と実証の洞察を両方とも包含しつつ、そのはるか彼方にまで拡張する「新しい」経済学が必要なのだと繰り返した。
ロウは1963 年に(当人に言わせれば)「引退」したが、 ニュースクールには講師としてとどまり、やがて 1983 年にドイツに帰国して他界した。享年一〇二歳。死ぬまでかれは、その大きな、だが未だに実現されざる希望に楽観的にしがみつき続けた――経済学と社会学との実りある学際的な交流だ。
アドルフ・ロウの主要著作
- Arbeitslosigkeit und Kriminalität, 1914.
- "Zur Methode der Kriegswirtschaftsgesetzgebung", 1915, Die Hilfe
- "Die freie Konkurrenz", 1915, Die Hilfe
- Wirtschaftliche Demobilisierung, 1916.
- "Mitteleuropaische Demobilisierung", 1917, Wirtschaftszeitng der
Zentralmachte.
- "Die asuführende Gewald in der Ernährungspolitik", 1917, Europaische
Staats und Wirschaftszeitung
- "Die Massenpreisung im System der Volksernährung", 1917, Europaische Staats und Wirschaftszeitung
- "Die Fragen der Übergangswirtschaft", 1918, Die Woche
- "Die Arbeiter- und Soldatenräte in der Demobilmachung", 1919, Europaische
Staats und Wirschaftszeitung
- "Die Neue Dmokratie", 1919, Der Spiegel
- "Die Soziologie des modernen Judentums", 1920, Der Spiegel
- "Zur gegenwartige Stand der Konjukturforschung in Deutschland", 1925,in Bonn
and Palyi, editors, Die Wirtschaftswissenshaft nach dem Kriege, 1925.
- "Chronik der Weltwirtschaft", 1925, Weltwirtschaftliches Archiv
- "Wie ist Konjunkturtheorie uberhaupt möglich?", 1926, Weltwirtschaftliches Archiv (transl. 1997, "How is Business Cycle Theory Possible at All?", 1997,
Structural Change and Econ Dynamics)
- "Weitere Bemerkungen zur Konjunkturforschung", 1926, Wirtschaftdienst
- "Zur Möglichkeit der Konjukturtheorie: Antwort auf Franx Oppenheimer", 1927, WWA
- "Uber den Einfluss monetarer Faktoren auf der Konjukturzyklus", 1928, in Diel,
editor, Beitrage zur Wirstschaftstheorie
- "Kredit und Konjuktur", 1929, in Boese, editor, Wandlungen des Kapitalismus
Auslandsanleihen
- "Reparationspolitik", 1930, Neue Blätter für den Sozialismus
- "Lohnabbau als Mittel der Krisenbekämpfung?", 1930, Neue Blätter für den
Sozialismus
- "Der Sinn der Weltwirschaftskrise", 1931, Neue Blätter für den
Sozialismus
- "Das gegenwartige Bildungsproblem der deutschen Universität", 1931, Die
Erziehung
- "Über den Sinn und die Grenzen verstehender Nationalökonomie", 1932, WWA
- "Der Stand und die nächste Zukunft der Konjukturforschung in Deutschland",
1933, Festschrift fur Arthur Spiethoff, 1925.
- "Some Theoretical Considerations of the Meaning of Trend", 1935, Proceedings
Manchester Statistical Society
- Economics and Sociology: A plea for cooperation in the social sciences, 1935.
- "Economic Analysis and Social Structure", 1936, Manchester School.
- "The Social Productivity of Technical Improvements", 1937, Manchester
School
- "The Task of Democratic Education: pre-Hitler Germany and England", 1937, Social
Research
- The Price of Liberty: A German on contemporary Britain, 1937.
- "The Turn of the Boom", 1938, Manchester Statistical Society
- The Universities in Transformation, 1940.
- "A Reconsideration of the Law of Supply and Demand", 1942, Social Research.
- "The Trend in World Economics", 1944, American J of Econ and Sociology
- "On the Mechanistic Approach in Economics", 1951, Social Research.
- "A Structural Model of Production", 1952, Social Research
- "National Economic Planning", 1952, in Hanley, editor, Survey of
Contemporary Economics
- "The Classical Theory of Economic Growth", 1954, Social Research.
- "Structural Analysis of Real Capital Formation", 1955, in Abramovitz, editor, Capital
Formation and Economic Growth.
- "The Practical Uses of Theory: Comment", 1959, Social Research.
- "Wirtschaftstheorie - der nächtste Schritt", 1959, Hamburger Jahrbuch fur
Wirtschafts und Gesellschaftspolitik
- On Economic Knowledge: Toward a science of political economics, 1965.
- "The Normative Roots of Economic Value",1967, in Hook, Human Values and
Economic Policy.
- "Toward a Science of Political Economics", 1969, in Heilbroner, editor, Economic
Means and Social Ends
- "Economic Means and Social Ends: A Rejoinder", 1969, in Heilbroner, editor, Economic
Means and Social Ends
- "Toward a Science of Political Economics", 1970, in Phenomenology and
Social Reality.
- "Adam Smith's System of Economic Growth", 1975, in Skinner and Wilson,
editors, Essays on Adam Smith
- The Path of Economic Growth, 1976.
- "Prometheus Unbound: A new world in the making", 1978, in Spicker, editor, Organism,
Medicine and Metaphysics
- "What is Evolutionary Economics? Remarks upon receipt of the Veblen-Commons
Award", 1980, Journal of Economic Issues.
- "Is Economic Value Still a Problem?", 1981, Social Research
- "Is the Glass Half Full or Half Empty? A self-critique", 1982, Social
Research.
- Has Freedom a Future?, 1988.
アドルフ・ロウに関するリソース
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