ウィーンでルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに教育を受けたにもかかわらず、エミール・レーデラーはオーストリア学派には加わらなかった。それどころか、ルドルフ・ヒルファディングに影響を受けたレーデラーは「オーストリア/マルクス主義者」最後の生き残りたちの一人と見なせる。だがこの一派ともいくつか決定的な点で相違している。その第一は、レーデラーが「ホワイトカラー」サービス階級の台頭 (1912) をきわめて重視したこと。これはレーデラーに言わせると、標準マルクス主義理論に大幅な変更を余儀なくするものだ。第二の相違点は、危機の理論についてだった。レーデラーは資本集中は実は資本主義における不安定要因なのだと論じた (1927)。もっと具体的には、構造的成長理論に関するいくつかの論文 (e.g. 1931) で、かれは失業の原因として技術変化の重要性に固執し、古い「過少消費主義」マルクス主義者よりはトゥガン=バラノフスキーに接近している。またその研究で、アドルフ・ロウ やキール研究所一派が開発したアプローチとも接触している。
レーデラーはまた、オーストリアとドイツでの社会民主党支持者の中でも活発だった。第一次大戦後、レーデラーはベルリンでヒルファディング と カウツキー率いるドイツ社会主義化委員会の一員となり、後にそこにアドルフ・ロウ、エデュアルト・ハイマン、そしてかつてのウィーンでのクラスメートだったジョセフ・シュムペーターもそこに参加した。レーデラーは学会でもすばやく出世を続けた。ハイデルベルク大学で経済学教授となり、その後は有力なベルリン大学教授となる。その助手の中にはハンス・シュペイアーやヤコブ・マルシャックも名を連ねている。
だがこれがナチスの台頭で打ち切られてしまう。エミール・レーデラーはドイツから知的難民をアメリカに逃がす支援で大きな役割を果たし、特に社会研究ニュースクールには大量の人材を流して、後に自分もそこに参加し、1939 年に他界するまで大学院教授会学長を務めた。
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