ポール・クルーグマン (Paul Krugman), 1953-

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クルーグマンのサイン

 ポール・クルーグマンはニューヨーク郊外の SF 少年として生まれ育った。ハリ・セルダンにあこがれて心理歴史学の道を志したものの、諸般の事情で挫折、失意のうちに経済学の道に入ったが、その後じわじわと頭角を現し、収穫逓増に基づく新貿易理論の旗手、為替理論、同じく収穫逓増に基づいた経済地理での活躍、調整インフレ論、そして経済解説者/コラムニストとしての辣腕振りなど、驚異的な活躍を見せるようになる。

 クルーグマンの経済学における第一の功績は、貿易理論の刷新だった。1960 年代までの貿易理論は、デヴィッド・リカード の比較優位論におおむね基づいていた。なぜ貿易が起こるのか? それは各国には地理や資源面で差があるからだ。ある国はリンゴをつくるのに適してる。ある国は石油がとれ、ある国は飛行機づくりが得意。いちばん得意なものに特化してそれを交換するのが貿易だ、というわけだ。しかしながら実際の貿易は、先進工業国同士が自国でも生産するものを交易していたりするものが多い。たとえば日本とアメリカは、どっちも車を作り、どっちもコンピュータを作り、それを輸出入しあっている。また多くの産業製品は、歴史的に見ても別にその土地に生産に有利な地理条件があったわけではない。

 従来の理論ではこれをきちんと説明できなかった。クルーグマンの功績は、収穫逓増を貿易の発生条件の一つとしてうまくモデル化したことだ。地理条件や資源は同じでも、ちょっとした偶然による差が収穫逓増によりだんだん拡大して、その差が大きな貿易につながる場合もある。可能性自体は以前から指摘されていたものの、クルーグマン (1979, 1980) はそれを表現する単純なモデルを構築し、この概念を主流経済学がとりあげる突破口を切り拓いた (1985, 1989, 1999)。同時に、それを地理的な分布にプロットすることで、これまで比較的停滞していた経済地理の分野にも新しいモデルを提供し、経済地理学にも収穫逓増モデルによる新しい潮流を引きおこしつつある (1991, 1999)

 またクルーグマンが活躍を始めた頃の世界経済上の大事件は、ブレトン=ウッズ体制崩壊に伴う変動為替相場の採用だった。為替自由化は、固定相場につきものの投機攻撃をなくし、為替の安定化をもたらすはずだったのに、実際には過去に例を見ない大変動を繰り返していた。クルーグマンは、市場の統合の不完全性と様子を見ることのオプション価値が為替変動を煽る結果となることを、これまた単純なモデルで説明している。同時に外国為替市場での投資家の動きが、短期的にも長期的にも合理的(経済学的な意味で)じゃないことを指摘し、各種の通貨危機の自己成就的な発生メカニズムをモデル化した (1979, 1989, 1992)。

 クルーグマンはまた、経済学の一般向け解説の名手、およびジョセフ・スティグリッツ と並ぶ歯に衣着せぬ率直な(つまりは政治的配慮のない)論客としても知られている。『クルーグマン教授の経済入門』(1990)は、アメリカ経済の分析の形をとりつつ、基本的な経済概念に関する実にわかりやすい名著として知られており、オンライン雑誌 Slate 等の軽妙な経済コラム執筆者として人気を博していたが、同時にクリントン政権の経済政策スタッフであるロバート・ライシュ、ローラ・ダンドレア=タイソンらへの容赦ない罵倒 (1994a, 1996b,c)、MIT 同僚のレスター・サロー嘲笑、同じく収穫逓増に基づく経済研究を進めていたブライアン・アーサーへのほとんど言いがかりのような罵倒などで有名で、特に最後のものはケネス・アローからもおしかりの手紙がきているほど。また、アルウィン・ヤングの論文をもとにアジアの経済発展は単に資本や労働力を増やしているだけなので (とはいえそれはそれですごいことなのだが)、早晩頭打ちにならざるを得ない、と論じた小論 (1994b) は、ロストウやバグワティを始め多方面から「アジア経済は無敵だ!」と厳しい批判を受けた。その後のアジア通貨危機は別の要因によるものだったが、少なくともアジア経済を万能視しなかったクルーグマンに一理あったとされることも多い。しかしながら、アメリカのブッシュ政権成立前夜からクルーグマンがニューヨークタイムズ紙に書き続けてきた経済コラムは、その率直さと経済分析をフルに活かし、9.11テロ以降ほとんど大政翼賛と化していたアメリカメディアの中で、ブッシュ政権の経済政策や外交政策に関する明晰な批判を唯一続け、いまやアメリカジャーナリズム界の良心とまで言われるようになっている。

 だがクルーグマンの活躍は(恐ろしいことに)まだある。調整インフレ関係の業績だ。日本が現在流動性トラップにはまっており、そこから抜け出すにはインフレ期待を高めるしかないというオンライン論文 (1998b) は、それまで世界的な低インフレのために低迷していたインフレ研究にいきなりスポットライトを当てることとなった。この論文が登場したときには各方面から疑問視する声や批判が相次いだものの、その後の日本の状況を見るにつけて、多くの論者はだんだんクルーグマンの議論に賛成するようになり、またそれを厳密に検討したペーパーの登場 (1998c) の登場により現在ではその理論的な正しさについて疑問視する学者は(日本以外には) ほとんどいない状態となってきている。この論文の発表と前後して、クルーグマンはそれまで(ガールフレンド/現奥さんのロビン・ウェルズを追って)一時スタンフォードにいた時期を除けばずっと在籍していた MIT を離れ、プリンストン大学に移籍した。当時はもうネタが尽きたから引退準備で金目当てに動いた、等陰口をたたかれてたが、実はプリンストンはウッドフォード、スヴェンソン、メルツァー等のインフレ研究大御所が集結する世界インタゲ陰謀団の本拠(© Krugman)と化しており、引退どころかインフレ研究はクルーグマンの新しい業績の核になりはじめている。

ポール・クルーグマンの主要著作

ポール・クルーグマンに関するリソース


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