ジェイムズ・アンダーソン博士 (Dr. James Anderson), 1739-1808.

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 スコットランドの農業研究者、農民、科学者、弁護士、好事家。シュムペーター (1954) によると、ジェイムズ・アンダーソン博士は「実に多くの経済学者が持ち合わせていない、ビジョンというものを非凡なまでに持っていた」とのこと。

 ミドロシアンの農場育ちのアンダーソンは、主に科学原理を農業に応用することに関心を持っていた。エジンバラ大でいくつか講義を受講はしたが、アンダーソンはスコットランド啓蒙主義の学者ネットワークにきちんとおさまっているとは言いがたい。それでも、当時の科学精神はまちがいなく身につけている。各種のことについて独学だった。そして好奇心だけでなく実務的でもあったので、無数の農具改良を発明している。最も有名なのは、堅い土に使う「スコットランド式鋤」だ。発見のほとんどは当時の雑誌寄稿論文に散在している(その多くはペンネーム「アグリコーラ」で発表されており、 1775 年 Essays に収録されている)。ちょっと有名な逸話として、『ブリタニカ百科事典』初版にモンスーンについて書いたとき、キャプテンクックが帰国して各種の発見を発表するより先に、驚くほど正確にその内容を予想した、というものがある。

 アバディーンシャイアの大農場に落ち着いてから、アンダーソンは 1777 年に最も有名な論考二篇を発表した。 ObservationsInquiry だ。この中でアンダーソンは、余剰利潤に基づく地代のちがいという理論を初めて提唱した。肥沃度のちがう土地は得られる余剰もちがうということを指摘して、アンダーソンはこう書く:

「したがって多くの者は、こうした肥沃な耕地の所有を得んと渇望するものであり、したがってそれを耕作する特権に対してはある程度のプレミアムを喜んで支払わんとする。そのプレミアムは、土壌の肥沃さの大小に応じて多かったり少なかったりする。我々が現在『地代』と呼ぶものを厚生するのはこのプレミアムなのであり、大いに異なる度合いの肥沃さを持つ土壌を耕作する費用が完全に均等になるようにするための媒体なのである」 (Anderson, Observations,1777: p.376)

 Inquiry で、アンダーソンは地代の数値例を挙げ、それを産出する数式さえ示している。そしてこれを後の著作でも繰り返している。例えば:

「地代とは実は、肥沃の度合いがことなる耕地から引き出される利潤を均等化するための単純かつ巧妙な仕掛けでしかないのである」 (Anderson, 1799: Vol. V, p.403).

 アンダーソンの 1777 年論考は、アダム・スミス『国富論』のたった一年後に刊行されている——そしてスミスはアンダーソンの著作を知っていた可能性が高い(本人を知っていたのはまちがいない)。ロバート・マルサスは 1803 年にアンダーションの著作に出くわしている。

 1815 年になってやっと、地代の収益差理論がマルサスリカードウェストトレンスらに採りあげられ、古典派経済学ドクトリンの中心に据えられた。だがアンダーソンは一つ大きな点で、この古典派の記述とはちがっていた。彼は集約農業において耕作の収穫逓減がある(つまりある土地の耕作を集約化すると収穫逓減が起きる)というのを否定したのだった。見当がつくと思うが、アンダーソンは技術「改良」が常にそうしたものを克服できると熱烈に信じており、自分の農業技術に対する貢献がその証拠だと考えていた。1799 年の Recreations と 1801 年の Calm Investigation で、かれは分業と農業における規模の経済による収穫逓増を熱烈に支持している。たとえば:

「土壌の改善は、その生産性を補うのに使われる手段に比例したものでなければならない。そしてこれは常に、そこに賢明な判断で注ぎこまれる労働と堆肥の量に依存する。吾輩が言いたいのは、ある程度以上の永続的または全般的な改良は、労働以外のものでは決して実現できず、有能な管理の下では、改良の度合いは土壌に対して注がれる労働に比例するのだということである。(中略)言い換えると、土壌の生産力はその土壌に対する活発な労働に雇用される人数と、その者たちが活動を実施する際の経済性に比例するのである」 (Anderson, 1799: Vol. IV, p.375-6)

 アンダーソンは保護主義的な穀物法を支持していた。それがイギリスの農家に対し、こうした改良が実現するのに必要なだけの耕作を行うよう奨励することになると信じていたからだ。

 その貢献を讃えて、アンダーソンは 1780 年にアバディーン大から法学博士号を授与され、1783 年には農場を離れてエジンバラに引っ越した。1784 年には政府に招かれて、スコットランド西部の漁業の調査を実施している (1785 年刊行)。1790 年から 1794 年にかけては、文芸科学雑誌 The Bee を編集している。おかげでちょっとしたもめごとに巻き込まれた。というのも政府は、この雑誌に過激な政治論説をいくつか載せていた匿名作家の正体を明かせと要求したからだ(アンダーソンは拒否している)。1797 年にアンダーソンはロンドンに引っ越し、もっと穏やかな知的探究に専念して、その成果をまとめた Recreations では地代や収穫逓増に関する多くの思想が述べられている。

ジェイムズ・アンダーソン博士の主要著作

ジェイムズ・アンダーソン博士に関するリソース


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