とっても才能豊かで影響力のあったフランス新コルベール主義経済学者。ル・マンで製造業の一家にフランソワ・ヴェロン・ド・ヴェルジェとして生まれたフォルボネーは、パリのヤンセン主義学校で教育を受けた。卒業後、父の事業で数年間、スペインとイタリア各地に旅行。1743 年に、活発な港湾都市ナントで叔父の下で働く。フォルボネーの経済教育は、イギリスの重商主義者やフランスのヴォーバン みたいな学者を読むことで身につけたけれど、その主要なアイデアは実際的な経験や、商業生活の慎重な観察から得たものだ。
フォルボネーが初めて刊行した著作は、モンテスキュー『法の精神』の経済部分に関するコメントで、1750 年に出たが、あまり成功しなかった。フォルボネーは 1752 年にパリに移り、政府財政改善策についていくつかの提案を政府に提出。1753 年には重商主義の古典文献を二つ翻訳――一つはスペインの重商主義理論家ジェロニモ・デ・ウツタリッツによるもので、もう一つはイギリス人チャールズ・キングによるものだった。
啓蒙主義思想家の関心を惹いたフォルボネーは、ディドロとダランベールの『百科全書』に何本か寄稿し、それを拡大して 1754 年にÉléments を刊行した。フォルボネーがケインズの流動性選好理論の前身を考案したのはここだったようだ。かれは金利というのは、お金を貯め込む人たちに現金を手放させるための「賦課金」なのだと論じている。1758 年にフォルボネーは大著 Recherches を刊行。これはフランスの公共財政の歴史分析だ。かれがこの研究につぎ込んだ慎重さと研究は、空前にして並ぶものがなかった。この研究と、かれの 1756 年の Considérations は、今日ですらすさまじく有用な資料となっている。
フォルボネーはすぐにフランス屈指の経済学者となった。1756 年には inspecteur général des monnaies をなり、1759 年には contrûleur général だったシルエットとショワスール公のアドバイザーとなる。この省のもとで行われた野心的な改革は、公共の福祉を考えた初めてのものだったかもしれないもので、ほとんどがフォルボネーのおかげだ。1763 年にはメッツ議会から貴族の地位を与えられ「フォルボネー」の称号を得た(その後はヴェロン・ド・フォルボネーとして知られるようになる)。
でも、フォルボネーの命運はやがて落ちる。激しく独立独歩の行政官で政治家としてはあまり才能のなかったかれは、権力を持った人々の間にはあまり友だちができず、敵はあちこちに作った。その頃には重農主義者たちの著作がでまわりはじめ、かれらはフォルボネーの新コルベール主義ドクトリンを主要な標的としはじめた。一連の攻撃がかれに対して行われ、その一部を扇動したのは、王の愛人で重農主義者の支援者だった強力なポンパドール夫人だった。
1763 年にフォルボネーは、均一従価式 15% 輸入関税を例外なしに課す政策を発表した。これは特権階級の特権を無視するものだったけれど、ショワスール公とパリ議会には承認された。でもポンパドール夫人はカンカンだった――改革そのものについてもさることながら、自分が相談を受けていなかったせいだ。彼女はルイ十五世に言いつけて、1764 年にフォルボネーをシャンペサンの領土に追放した。この命令は 6 週間後に撤回されたけれど、毒蛇の巣窟に舞い戻るのをいやがったかれは、そのままとどまって自分の領土に専念することにした。
フォルボネーは 1766 年にパリに戻り、植民地での地位を見つけようとした。結局得られたのは デュポン・ド・ヌムール の後継者として、 Journal de l'agriculture, du commerce et des finance 編集者の地位だった。かれはすぐにこの雑誌を方向転換させて、重農主義雑誌から 新官房主義の牙城にした。1767 年には、重農主義ドクトリンの批判的検討をまとめて、新コルベール主義的な立場を最も上手に述べた Principes を刊行した。またアビールの論考の書評でもかれは重農主義者たちを叩いている。
いろんな意味で、フォルボネーが戦っていたのは、後衛戦ではあった。特権階級には気に入られようとしなかったし、重商主義ドクトリンにもいろいろリベラルな部分をつけたりはしたけれど、でもかれらの日々が終わりに近づいているのは明らかだった。フォルボネーは相変わらず、イギリスの力と富は保護主義政策のおかげだと考え、それが害になっているとは思わなかったし、同じことをフランスにも提言した。かれの業績はドイツ 新官房学派、たとえばゾネンフェルズなんかに大きな影響を与えた。その重農主義批判は、その土地にばかりこだわったproduit net に対するものだった(フォルボネーは、工業や商業だって富の源泉だと考えていた)。もちろん、かれのような現実的で経験主義的な考え方の人物にとっては、重農主義者の抽象的な飛躍や、経済の仕組みについてのユートピア的ビジョンとしか思えないものに対する嫌悪も強かった。
重農主義者たちが 1769 年以降権力の座から滑り落ちて、フォルボネーは著作をやめて、自分の領地の管理に専念した。1789 年の革命中に再登場した。1789 年には Estates-General には選ばれなかったけれど、1790 年には Constituent Aassemply の財政委員会からパリに呼ばれた。かれは感心を金融問題にだけ向けて、 assignats についての論考を刊行した。1791 年にまた選出されなかったため、フォルボネーは領地での静かな生活に戻った。
1794 年にフォルボネーは、共和党派が設立した新しい科学アカデミー Institut de France に選出された。デュポン・ド・ヌムールが 1796 年に創刊した雑誌 Hisotorien に Viellard de la Sarthre なる筆名で何本か寄稿。1799 年には自分の地域で紛争が起きてパリに逃れ、そこで間もなく死亡した。
ホーム | 学者一覧 (ABC) | 学派あれこれ | 参考文献 | 原サイト (英語) |
連絡先 | 学者一覧 (50音) | トピック解説 | リンク | フレーム版 |