リチャード・カンティリョンは、多くの人が初の大経済「理論家」として認識しているけれど、あまりよくわからない人物だ。知られていることはこの程度:アイルランド人で、スペイン名を持ち、フランスに住んで、ジョン・ローの手口で 2 千万リーブルを儲けてからイギリスに移住した。ロンドンの自宅の火災で死亡――クビになった料理人による放火だと言われる。(訳注:この人の名前は、カンティロンと書いたりカンティヨンと書いたりする人がいるけれど、名前がスペイン式というのを根拠に、ここではカンティリョンと書くのだ)。
カンティリョンの名声はすべて、一冊の見事な著書 Essai Sur la Nature du Commerce en Général によるものだ。これは 1732 年頃にフランス語で書かれ、その死後 20 年してから匿名でイギリスで刊行された (一部の説では、もともとが英語で書かれていたのだけれどそれが失われ、フランス語訳が残ったのだ、と言う)。その業績は重農主義者やフランス学派にはよく知られていたけれど、英語圏では忘れ去られ、やっと 1880 年代になってウィリアム・スタンリー・ジェヴォンスによって再評価・認識されるようになった。
カンティリョンは、おそらくは長期均衡を「収入のフロー」のバランスとして定義した最初の人物だっただろう。これによりかれは、重農主義 と古典的政治経済両方の基礎を作った。カンティリョンの方式は単純明快で、実に画期的なものだった。かれは2セクターの一般均衡系を開発して、そこから価格理論を導き(価格は生産コストで決まる)、産出の理論(これは投入要素と技術で決まる)を導いた。ペティの労働と土地の「等価性」仮説を薦めて、労働を、それを支えるのに必要なものの量に還元し、これにより労働供給と産出の両方が、労働を喰わせるために必要なものと、地主を喰わせるための高級品の生産に必要な土地の量の関数にすることができた。相対価格は土地の利用率に還元できることを実証することで、カンティリョンは完全な「土地価値説」の完全なモデルを生み出したと言えるだろう [カンティリョンの方式検討についてはこちらを参照]
カンティリョンによる、需要供給による短期的市場価格決定の慎重な記述(ただし長期的自然価格ではない)はまた、かれを限界革命の先人にもしている。特に、かれの洞察に満ちた企業家についての記述(かれは企業家を一種のアービトラージと捕らえている)は、かれを現代オーストリア学派の寵児にした。カンティリョンはまた、貨幣数量説を最も早い時期に(最も明確に)記述した人物の一人で、その背景となる理由づけも相当部分を提供しようとした。
最後に、かれの理論の帰結の一つは、かれが準-重商主義政策に近い、有利な貿易収支を支持する理論を生み出したと言うことだが、そこにはひねりがあった。カンティリョンは、国富を増やす手段として「土地に基づく製品」の輸入を奨励し、「土地に基づかない製品」の輸出を薦めたのだった。
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