エドマンド・バーク (Edmund Burke), 1729-1797

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Portrait of Burke

 アイルランドの社会政治哲学者で国士。啓蒙時代の人ながら、バークは「自然法」や社会契約の合理的主義理論を厳しく批判した。デビッド・ヒュームと同じく、バークは政治社会組織が各種の政治、文化、社会条件から時間をかけて有機的に発展してきたと信じていた。バークの見方では、現在の社会は少しずつ部分的に、歴史を通じてゆっくりと生まれてきた堅牢な有機体なのだ。この理由から、バークは過激な政治、経済、社会の再編を目指す抽象的な「大計画」は決して信用しなかった。このためバークは保守主義の父と崇められるようになる。

 だが、バークは現状擁護論者というわけでも決してなかった。圧政的な王さまや議会は、圧政的な暴漢たちに負けず劣らずバークにとっては否定すべき存在だった。このためかれはアメリカ革命を擁護し(というのも、かれらは自由に生まれたイギリス人としての伝統的な権利を「取り戻している」に過ぎないとバークは考えたからだ)、フランス革命を糾弾した(こちらはバークに言わせると、合理主義的な実験に基づくものだったからだ)。

 バークはダブリンのトリニティ大学で弁護士となるべく学び、その後ロンドンに引っ越した。1759 年にはウィリアム・ハミルトンの私設秘書となり、その後 1765 年にはロッキンガム伯爵でホイッグ党首相チャールズ・ウェントワースの私設秘書になった。バーク自身も 1765 年に下院議員に当選し、1766 年にホイッグ党が打倒されると議会でトーリー党と対決することになる。

 バークは議会でもメディアでも、いくつか政治的な主張を掲げた。最初のものはウィルクス危機(下院議員でありながら、ジョージ三世を再三批判して何度も除名されたジョン・ウィルクスをめぐる事件)と、それに関連した王室と議会との関係だった (1769, 1770)。続いてはアメリカにおけるイギリスの植民地政策をめぐるもの (1774, 1775) だ。また、カトリック教徒解放、アイルランドとの貿易障壁撤廃、奴隷貿易廃止と奴隷制廃止、インドにおける東インド会社の特権や行き過ぎへの反対も行っている(そして後にインド総督ウォーレン・ヘイスティングス弾劾を主張している)。政治的立場の一部(例えばカトリック教徒に対するもの)はあまり人気がなく、結果として議席を何度も失うことになる(が、いつもすぐに復帰した)。1771 年にバークはニューヨーク議会から、ロンドンでの代表に選出されている。バークは 1794 年に議員の座を退いた。

 バークが経済学に与えた影響はおもしろいものだ。現代では、政治社会規範の無計画で歴史的な発展に関するバークの考え方をもっともはっきり反映しているのは、フリードリッヒ・ハイエクオーストリア学派の後期の著作だ。だが最大の影響を受けたのは 社会批評家たち、たとえばトマス・カーライルやジョン・ラスキンなどで、かれらはバークの議論を持ち出して、資本主義的な工業主義の破壊的な台頭を糾弾した。経済学者たちの「ホイッグ化」に対するカーライル=ラスキンの攻撃は、マリー・アントワネット処刑についての 1791 年 Reflections の有名な一節ですでに先取りされている。:

だが騎士道の時代は去った。それに取って代わったのは詭弁家、経済学者、打算家たちの時代だ。そしてヨーロッパの栄光は永遠に消し去られてしまったのだ。

 エドマンド・バークは、ウィリアム・バトラー・イェイツの詩「七賢人」(The Seven Sages) で賞賛されれているのが有名だ。

エドマンド・バークの主要著作

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