サイモン・ニューカムとアーヴィング・フィッシャーの貨幣数量説は、すでに見たように、お金が安定した交易需要を持つという発想に完全に依存している。これは、お金が交換媒体としてだけ需要され、それが制度的に強制されているんだ、というのが前提となる。この点を修正したのが、20 世紀前半のケンブリッジの経済学者数名だ。特に A.C.ピグー (1917)、アルフレッド・マーシャル (1923), D.H. ロバートソン (1922)、ジョン・メイナード・ケインズ (1923), R.G. ホートリー、フレデリック・ラヴィントン (1921, 1922) が挙げられる。かれらが共同で作り出したのが、その後「ケンブリッジのキャッシュバランス」アプローチと呼ばれるようになったものだ。
かれらの掲げた説は、お金は価値を貯める手段として求められるんだ、というものだ。だからケンブリッジ派の言い分は、フィッシャーの言い分とは根本的にちがってる。フィッシャーだと、お金はそれがたまたま交換媒体となっているから、エージェントたちにある一定額が求められるというだけの話だ。フィッシャーが書いているように、お金は持ち主に何の利益ももたらさない。でもケンブリッジ説だと、そんなことはないのだ。お金はある面で本当に効用を高める。つまり販売と購入を分離できるようにしてくれるのと、不確実性に対するヘッジとしてだ。
その理由は、アダム・スミスや W.S. ジェヴォンス (1875)、カール・メンガー (1892) が述べた概略と同じだ――お金というのは、取引コストや求めるものの一致問題(訳注:物々交換の世界だと、たまたま自分の望む取引をしたがる人――たとえば、手元のリンゴを乾電池と交換してくれる人はいないかな、とか――が都合良くそこらに居合わせる可能性はほとんどないので、とっても不便だよ、というお話)をなんとかするのに必要だ、というわけね。かれらが述べているように、同時の多者間取引が、取引コストなしで行えるんなら、交易者たちがお金を必要とするかどうかは必ずしもわからん。お金のいいところというのは、それが偶然同じものを交換したがっている人を見つけなくていい、ということだ。エージェントはある一時点で自分の商品を「お金」と交換に売れる。そして一番いい値段をゆっくり探して、それからその「お金」を最終的に欲しいモノと交換すればいい。
ケンブリッジ派の教えは、商品の販売と購入は同時じゃないので、購買力を「一時的に寝かしておく場所」が必要だ、ということだった。富の一時的な保管場所ですな。特に A.C. ピグー (1917) は、お金の需要が予防的な動機を含む場合も含めた――お金を持つのは、不確実な状況のためのヘッジとして機能するわけね。
この富の保管と予防的なモードの場合、お金が消費者に対して効用をもたらす。だからある意味で、お金はそれ自体が欲求されるものとなる。いくらくらいが求められるのかは、一部は所得によるし、また一部は他の条件、特に富や金利による。最初の部分はもちろん取引条件の中に組み込まれている。所得が高いほど、購買や販売の量も多くなるし、だから取引コストを克服するための一時的避難所としてのお金に対するニーズも高くなる。だからケンブリッジ理論家たちは、実質的なお金の需要を、実質所得の関数として考えた。つまり:
M/P = kY
ここで k は有名な「ケンブリッジ定数」だ。でもこれはずいぶん誤解のものだ。というのも「定数」の k はちっとも一定なんかじゃないからだ。むしろそれは、他の要素、たとえば金利(お金の機会費用)や富に左右される。
これをフィッシャーの体系と比べるには、実質所得 (Y) と取引 (T) は均衡下では等しくなる、ということさえわかればいい。もちろん、富の取引の中には厳密には所得にも産出にも含まれないものがある (たとえば家みたいな既存資産の販売)。これは単に所有権の移転でしかないからだ。これを回避するには、ピグー (1927) が書いているように、家の適正な販売価値というのは実は賃料の割引現在価値なんだ、というのを認識すればいい (賃料は所得になる)。だから富の取引は、割引かれた所得ストリームの取引をあらわしている。というわけで、少なくとも長期の完全な世界なら、 T = Y になると言える。だからフィッシャーの方程式は M/P = (1/V)Y とあらわせる。ここで k = 1/V だ。
ということで、この二つの式は、相互に導けるものだ。でもその理論はかなりちがっている。まず、ここでのお金は価値の保存、不確実性からくる効用をもたらす形で書かれている。フィッシャーでは、取引を可能にする制度的な交換媒体でしかなかった。第二に、ケンブリッジ派は k (ひいては V) が必ずしも制度的に固定されておらず、むしろ変化するという発想を提示した。
でも、リアル部門(実体経済)と金融部門との二律背反は、k に何が含まれているか曖昧だ、というのを考えると、破られているとは言い難い。そしてこれを考案した人たちも、この点をあまり突き詰めたがらなかった (Patinkin, 1974 を参照)。何より、ケンブリッジ派は不確実性と安心が k に入り込んで、リアル経済の上下動が起きるという問題を考えた――これはすでにマーシャル (1890: 591-2) にもある発想だ。でも、この説明は白黒をはっきりさせる力を持っていなかった。なぜかというと、そうした状況での期待形成について、何の理論も提示しなかったからだ――だから経済の上下動の理論としては、それは(どんなに引き延ばされても)短期の現象でしかなかった。でもこんな理論はおもしろくもなんともない。実際、フィッシャー (1911) の信用サイクル理論と「ドルのダンス」によって、短期的な調整コストがあると数量説が成り立たないことが示されてしまったので、なおさらだ。でも、ケンブリッジアプローチの主要論点は以下の二点にまとめられる: (1) 中立性は成り立つけれど、リアルと金融の二律背反はアヤシイ; (2) お金はサービスを生み出すもので、だから選好される。
戻る (貨幣数量説) | ページのてっぺん | 次 (ヴィクセルの累積過程) |
ホーム | 学者一覧 (ABC) | 学派あれこれ | 参考文献 | 原サイト (英語) |
連絡先 | 学者一覧 (50音) | トピック解説 | リンク | フレーム版 |