Valid XHTML 1.0!

やっぱり貧乏人は合理的でないのかもしれないよ。

(The Economist Vol 383, No. 8526 (2007/04/28), "Economic Focus: Another day, another $1.08," p. 90)

貧乏人は減りつつあるし、その貧乏にでさえ選択の余地はある――最善の選択をするとは限らないかもしれないけれど。

  今月、世界銀行は、一日一ドル以下で暮らす人の数が 2004 年には 9.86 億人だったと発表した――これはそうしたひどい状態で暮らす人の数が 10 億人を下回った初めての年となる。世界銀行の極度な貧困の定義は、明快で単純で、dollar a day と d の続く頭韻にさえなっている。Journal of Economic Perspectives最新号で、マサチューセッツ工科大のアブジット・バナジーとエスター・デュフロは、これをレトリック的な名作と呼んでいる。だがこれはそんなにいい加減なものだろうか? そして貧乏人はどうやってこんな小銭で暮らしているのだろうか?

貧困者はやっぱり減っている

  世界銀行が 1990 年の『世界開発報告』で貧困者を数えようとしたとき、かれらは別に自分で新たに指標を作る期はなかった。マルティン・ラヴァリオン率いる経済学者たちは、すでにそこらに出回っていた 33 ヵ国の貧困水準線を集めてまわったのだった。インドの貧困水準線は、一日 2,250 カロリー以下の食事しかしていない人を貧困者と定義していた (訳注:欧米でよく使われる大カロリー表記。日本のカロリー表記だと2,250キロカロリーとなります)。ここから計算すると、この水準を満たすには典型的な地方部のインド人は 1960-61 年価格で月に 15 ルピー使えばいいことになる。

  ラヴァリオンのチームは、ルピーやペソやルピアを同じ購買力の指標に換算した。1960 年にインド郊外で月に 15 ルピー使うというのは、1985 年のアメリカ人が 23.14 ドル使うのと同じくらいの財やサービスを買える。だがインドの指標は極端にひくいものだった。他の貧困水準線の 6 つ(インドネシア、バングラデシュ、ネパール、ケニヤ、タンザニア、モロッコのもの)はどれも、もう少しゆとりのある月 31 ドルに誤差数セントの範囲でおさまっていた。

  この洞察をもとに、一日一ドルの概念が生まれ、これが無数の宣言や不平不満、嘆願などに使われることとなる。たとえば一日一ドル以下で暮らす人々の比率を半減させることが、2000 年 9 月に 189 ヵ国の批准したミレニアム開発目標の最初の目標の筆頭にあげられた。(ラヴァリオンはこの数字を 1993 年価格にあわせて一日 1.08 ドルに引き上げた。今日でいえばこれは 1.53 ドルほどだが、それでもこの概念の字面上の魅力は衰えなかった)。

タバコとアルコール

  だがこの数字は、それ以下にいる人々にとってどんな意味があるのだろうか。バナジーとデュフロは、コートジボワール(象牙海岸)からメキシコに至る 13 の家計調査に基づいて、貧困者の「経済的生活」を描き出している。インドの調査二つ――ウダイプールの農家とハイデラバードのスラムのもの――はこの二人が自分で実施した調査だ。

  詩人ヴィクラム・セスの前職は経済学者で、こうした調査につきまとう「陰惨なるプライバシーの剥奪」について述べている。たとえば 2001 年には、世界銀行のチモール・レステ地方の研究者たちはこんなことを調べている:世帯の人々が水浴びをするときにはシャワーを使うか川へ行くか? トイレは水洗かくみ取りか? 家はれんがか木造か?等々。またこの一週間で食べ、飲み、噛み、吸ったものを全部思い出せという。カッサバかエビか? 豆かパパイヤか? 丁子タバコかビンロウか? ビールかやし酒か?

  一日一ドルでは、選択の余地はあまりないように思える。空腹ほど厳しい制約条件はない。だがこうしたプライバシー剥奪の結果を見ると、貧困者も選択をしているようだ。そしてまた、その選択が必ずしも最善なものとはいえないらしい。

  貧乏人はあまり文句はいわない、とバナジーとデュフロは述べている(ウダイプールでは、自分の人生が不幸だと感じる人は 9 パーセントしかいなかった)。だが文句を言うべき問題はたくさんある。空腹と病気のおかげで、多くの人はガリガリだ(ウダイプールの成人の 65 パーセントは体重過少となっている)。半分は貧血症だし、七分の一は視力障害を患っている。多くはこの一年で少なくとも一日は食事を抜かなくてはならなかった。

  それなのにかれらは、可能なほど食べていない。バナジーとデュフロによると、ウダイプールの典型的な貧乏世帯は、アルコールやたばこや祭儀にお金を使うのさえやめれば、食生活を三割は改善できる。この祭儀というのは、結婚式やお葬式、宗教儀式に使うお金で、家計予算の一割にも達する。こうした支出は、現実逃避によるものかもしれない――貧乏人はいろいろ逃避したい現実に直面しているのだ――あるいは社会的な模倣によるのかもしれない。絶対貧困にいる人々でさえ、体面や社会的地位を気にするのだ。

ドーサ
ドーサってこんなもの。
南インドでよく食べる。おいしいよ。
  著者たちは、貧乏人がお金をどう使うかだけでなく、どうやってそれを稼ぐかについても検討した。グンツールの町の貧困女性は、毎朝道に並んでドーサを混ぜては灯油ストーブで焼き、一つ一ルピーで売る。十時になると、みんな職をかえて酢漬け野菜やサリー刺繍やゴミ拾いに精を出すようになる。

  開発経済学者にとって、貧乏人はどんなに状況が厳しくても合理的にふるまうというのは、ほとんど信仰信条に等しいものとなっている。かれらの行動が小規模すぎたり薄く分散しすぎたりして効率が悪くなっていても、それはかれらの計算間違いのせいではなく、土地や融資や保険の市場がかれらを裏切ったからだとされる。ある経済学者が 1993 年に論じたように、「四十年以上にわたる研究を見れば(中略)少なくともこうした連中が自分たちにとって本当に有益なのが何かわかっていないのだという発想は、完全に否定されるはずだ」というわけだ。

  だがバナジーとデュフロの心中に再びわき起こっているのは、まさにそうした発想だ。たとえばなぜガーナの農民は、ある推計では 250~300 パーセントの収益をもたらすはずのパイナップルをもっと栽培しないのだろうか? なぜ肥料を使うことの効果が十分に実証されているのに、西ケニヤの農民たちは肥料を使おうとしないのだろうか。

  「貧困者は、お金をもっともたらすようなプロジェクトに心理的にコミットするのを嫌がっているのが感じられる」と著者たちは書いている。一日一ドル以下で暮らす人々は、正面から自分の状況を直視するのを苦痛に思うのかも知れないし、もっとよいものがあるのではないかと思うこと自体がつらいのかもしれない。「貧困にはすばらしい救いがあるのだ」とジョージ・オーウェルは、パリとロンドンのスラム街を徘徊した後でこう述べた。「それは人々に未来というものを直視しないようにさせてくれることだ」


コメント

  おもしれー。確かにそういえば、貧乏な国ほどみんなタバコを吸う。なぜか、というのはなかなかおもしろい問題だ。貧乏人は酒タバコをやめればもっといい食事ができる! それをしない貧乏人どもはアホじゃ! 確かにその通り……かな?

  突っ込みどころもいろいろある。他に娯楽がないから、というのはたぶんだれでも思いつく説明だろう。また多くのドラッグは、つらい労働に耐えられるようにするための鎮痛剤でもある。貧乏なのにタバコを吸うのではなくて、タバコを吸うからこそやっとその程度の稼ぎでも得られる、という可能性はある。いつぞやのコンドームの使用と同様に、余命との関係で議論もできるだろう。間抜けなブロガー諸君が、根拠レスな思いこみに基づく一知半解な仮説をあれこれしたり顔で述べる余地はいくらもあるので、精々がんばってほしい。

  山形版の、必ずしも間抜けでない仮説を述べておくと、特にガーナの農民のパイナップルやケニアの農民の肥料は合理的な説明ができると思う。多くの世界の農家その他は、これまで「この方法はすばらしい」というのを導入することで痛い目にあった経験を持っている。たとえばフィリピンのナタデココ農家は、儲かるといわれて栽培してみたらすぐに市場がなくなって破産したり、ボストンのウニ漁師たちは日本市場の細かいウニの等級がわからず、ある年に大もうけしたと思ったら翌年のウニはまったく買ってもらえずにずいぶん苦労したりしている。失敗した新農法は無数にある。したがって「明らかに儲かる」と言われてそれをすぐには信じないだけの用心深さがあるのかもしれない。

  また貧乏人の条件にはもう一つある。金を儲けても、その使い道があるか、ということ。カンボジアにアメリカが農業技術援助をしたら、収量がすぐに倍になってみんな喜んだそうな。これで余分の作物を市場で売って稼げば、みんな豊かになる、というのが援助したアメリカの計算だった。ところが数年して戻ってみると、村はちっとも豊かになっていなかった。調べてみると、収量が倍になったので、農民たちは畑を半分だけ耕してそれ以上は仕事をしなかった(シアヌークの自伝, My War, pp. 123-4)。理由は二つあって、一つは金を得ても特にほしいものがなかったということ。貧乏な村に売れない商品を持ってくる物好きな商人はいなかったので、それまでその農民たちは、お金で何が買えるのかまったく知らなかった。だから稼ぐインセンティブがない。またもう一つ、カンボジアはアジア的専政(© ウィットフォーゲル)国家にありがちなこととして、ちょっとでも余裕ができると役人等々がたかりにくるので、結局手元に残らない。目をつけられないためには余計なものを作らないほうがいいのだ。これは李氏朝鮮でイザベラ・バードが目撃した状況でもある(バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫) 。

  というわけで、合理性を疑えるかどうかは、ちょっと疑問なところもある。貧乏人は酒タバコと宴会をやめれば食卓は豊かになるかも――でも酒タバコと宴会こそが人生を豊かにするものだ、ともいえるわけで……どんなもんでしょうな。ちなみにアイン・ランドは、喫煙というのは火に対する人間の勝利を宣言する祝祭的な行為なのである(よって禁煙論者は人類知性と文明に対する敵である)と『肩をすくめるアトラス』で論じているけど、これまた彼女らしいアホな意見ではありますが、そういう面もあるのかもね(でもそれなら蚊取り線香でもつけたほうがいいと思う。特に途上国では)。まあこの研究を間に受けて、また世銀が「貧困削減のために禁煙を」とかいう馬鹿な運動を始めないことを祈るばかり。

  あともう一つ、冒頭のグラフで貧困者の数も比率もぐんぐん減っていることは見逃さないでおいてくださいな。これはホワイトバンドなんかとは何の関係もないことはご理解を。あの連中が騒ぎ出すはるか以前から、貧困はどんどん減っているんだよ。連中がふりまわす、貧困が悪化しているとか改善されないとか、現在の政策がまったく効果がないとかいうデマにはだまされないでほしい。

付記

  ある一知半解な人間が、はてなブックマークで誤解を招くコメントをしていて、それに影響されている二次馬鹿もいるようなのでちょっとコメント。

  この人物曰く「貧困の判断基準は所得そのものであって所得の使い方とは関係ないというあたりまえのことが理解されていない」

  が、これはちっともあたりまえではなく、この人物の知識が不足しているだけ。まず貧困の基準は一つではない。文中で、インドが採用していた基準が摂取カロリーを基準にしていたことを思い出してほしい。要するに、その所得が食物に使われるかどうかというのがインドの基準では重要なわけだ。さらに 世界銀行が一日一ドルというとき、それは消費に注目しているケースが多々ある。以前の貧困記事の半ばあたりを見て欲しい。稼いだ金をどう使うか(少なくとも貯金か消費は)は重要なポイントだ。勝手な思いこみはよくないな。

  またグラフの最下部が 9.5 億人になっているから、グラフがごまかしっぽいという主張をこの人物はしている (単位は billion だから 0.95 億じゃないよ。せめてそのくらいはまちがえないようにしようね)。でもそういう印象が出にくいようにグラフに処理がされているのに気がつかないかな。もとのグラフの足下がギザギザ線になっていて、しかも9.5億の線をつきぬけていることで、ゼロから生えているのではないということが明示されている。「いやおれはそんなことは気がつかなかった」と己の粗忽ぶりをふりかざす議論は可能だし、これが十分かどうかは議論がわかれるだろう。でもグラフがゼロから表示されていなかったらすべて印象操作という馬鹿の一つ覚えみたいな物言いは感心しない。そうした危険性を理解してそれに対する一定の対策が取られている点は理解すべきだろう。印象操作というけれど「これが絶対に正しい」というやり方があるわけじゃない。表現したいポイントの強調はあらゆる言説に存在する。それを他の配慮とどうバランスさせるかには、いろんなやり方がある。この記事のグラフは、それをかなりきちんと誠実にやっている例だろう。それを無視して(あるいは理解できずに)「印象操作っぽい」なんて言い立てることこそ悪意の印象操作じゃないかな。

(それとこれを「山形流詭弁術」なんて書いているところを見ると、まさかとは思うが、この人はこの記事をぼくが書いてると思ってるのかな? これは The Economist というえらい雑誌の記事を山形が翻訳して勝手なコメントをつけているだけですからね。この雑誌は招待記事以外は全部この雑誌の記者が書いているのです。)


The Economist セレクションインデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.0!YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)