Valid XHTML 1.1!

まちがった預言者マルサス

(The Economist Vol 387, No. 8580 (2008/5/17-23) p.87, "Economics focus: Malthus, the false prophet") マルサス
トマス・マルサス


山形浩生訳 (hiyori13@alum.mit.edu)

悲観的な司祭にして初期の政治経済学者だったマルサスは、いまも昔もまちがっている。

  食料価格の驚くほどの高騰は、多くの国で暴動や不穏を生み出し、アメリカやヨーロッパの比較的裕福な人々ですらその影響を身をもって感じるようになっている。おかげで、グローバル市場が世界 70 億人の腹を満たせるという信頼は揺らぎ始めている。慢性的な不足の時代が始まったのではないかという恐れが生じた結果として、トマス・マルサスの名前が再び出回るようになってきた。でもかれの見方がいまになって当てはまるようになったとしたら、それは過去二世紀の経験とまるで相容れないものとなる。

  マルサスが初めてその発想を公にしたのは、1789 年の『人口論』でのことだった。これは人間の人口成長と、食糧供給の増加という悲劇的な二つの軌跡を根拠にしていた。人口はそのままだと無限に増える傾向にあるが、食糧供給は有限な土地という制約に直面してしまう。結果として、飢餓や病気、戦争による高い死亡率という「正の制約」が、食料供給能力に見合った水準に人々を保つために必要となるのだ、というのがかれの議論だった。

  1803 年の第二版では、マルサスは元々の厳しいメッセージを少し和らげて、道徳的な節制の概念を持ち込んだ。こうした「予防的な制約」は、死亡率より出生率を通じて、多すぎる人口が少なすぎる食料を追い求めるという逃れようのない論理に対抗できるかもしれない。晩婚化と少子化によって、人口成長は十分に抑えられて農業が対応できるようになる。

  マルサスにとって不運なことに――だが後続世代にとってはありがたいことに――マルサスがこれを書いたのは歴史の転換点だった。かれの発想、特に第二版のものは、工業化以前の社会の記述としては正確と言えるかも知れない。前近代社会は確かに、空腹と満腹の間で危ういバランスを維持していた。でも当時すでにイギリスで始まっていた産業革命は、経済成長の長期も通しを一変させつつあった。経済は人口成長より急速に拡大しはじめ、生活水準を持続可能な形で向上させていったのだった。

  食料はマルサスが恐れたように不足するどころか、貿易の拡大と、アルゼンチンやオーストラリアのような低コストの農業生産国が世界経済に加わるにつれて、むしろ豊富になっていった。きちんとした政治経済に基づく改革も重要な役割を果たした。特に、1846 年の穀物法廃止は、イギリス労働者たちが安い輸入食料の恩恵にあずかる道を開いた。

  マルサスは、経済的な予測もさることながら人口予測もまちがえた。豊饒の時代にも人口が成長し続けるというかれの想定はまちがっていた。ヨーロッパを皮切りに、一国、また一国と、あちこちで経済発展にともなう繁栄につれて「人口転換」が起こった。出生率と死亡率はどちらも下がり、人口成長もやがて遅くなっていった。

  マルサスの異端の説が再びもちあがったのは 1970 年代初期、最後に食料価格が高騰した時だった。少なくとも当時は、人口的な警鐘はそれなりの根拠があるように見えた。第二次大戦後に人口成長率は急激に上昇した。発展途上国の高い出生率が、幼児死亡率の激減に追いつくほど下がるのに時間がかかったからだ。でもこのときも、人口過剰に対する心配は杞憂だった。「緑の革命」やその後の農業効率の改善が食料生産を大幅に増やしたからだ。

  世界の人口成長は、40 年前に 2% でピークを迎えた。その頃にすらそれが心配すべき問題ではなかったのなら、現在それが 1.2% に低下している以上、なおさら心配には値しない。でも人口そのものが心配の種にはならないにしれも、特にアジアなどの急激な経済成長に伴うライフスタイルの変化は懸念のタネだ。中国人は豊かになるにつれて肉の消費量も増えてきた。ウシは人よりもたくさんの穀物を必要とするので、基本食料の需要は増えてきた。ネオマルサス派は、世界が西洋式の食生活を持つ 67 億人の人口(2050 年には 92 億人)を養いきれるだろうかと心配する。

  ここでも、懸念はあまりに悲観的だ。最早 19 世紀のように入植して開墾すべき処女地はないかもしれない。でも農業生産性が頭打ちになったと考えるべき理由はない。次の「緑の革命」に対する大きな障害の一つは、遺伝子組み換え作物に対する無根拠な人々の不安であり、これがヨーロッパだけでなく、これを輸出増に使える発展途上国の生産すら押さえ込んでしまっているのだ。

幾何級数的に増えているのは政治的愚行だ

  ありがちなことだが、政府がこれをさらに悪化させている。食糧禁輸がどんどん拡大しているのだ。こうした対策は一時的にはその国に救済をもたらすかもしれない。でもそれが広まるにつれて世界市場は厳しくなる。もう一つ見当違いな政策としては、アメリカが国内のエタノール生産に補助金を出して、輸入原油への依存を減らそうとすることだ。需要に対応するよりも燃料を増やそうというこの筋違いな政策は、今年のトウモロコシ生産の三分の一を吸い上げてしまうと予想されている。

  ネオマルサス派はもちろん食料不足についてあれこれ言い分はあるだろう。でもこの教義は、資源やエネルギーの絶対的な制限という発想としてあらわれることが多い。たとえば「ピークオイル」の発想などだ。1970 年代初期の脅しの後で、石油会社は追加の油田を見つけて悲観論者たちの裏をかいた。これは、原油価格高騰が新しい油田探索をうながしたからという理由も大きい。でも油田が涸れたとしても、経済は新しいエネルギー源を見つけて活用することで適応できる。

  もっと新しいマルサスの限界論は、地球温暖化に対抗すべく温室ガス排出を抑えるべきだという議論として登場している。でもこれまた低炭素経済の移行で対応可能だ。農業と同じく、これに必要な調整を困難にしているのは、政府が炭素税を導入したがらないといった政策的な欠陥だ。従来型の成長には制約があっても、人々の創意工夫には制約などない。だからこそマルサスは二世紀前もまちがっていたし、いまなおまちがっている。


モナー 解説

 最近ふと「成長の限界」(ほぼありとあらゆる点でまちがっていた本)をアマゾンで見たら、それが「正しかった」という絶賛レビューの嵐なので驚いていたところへ見かけたので、ちょっと訳してみました。ここにあるような議論に対して「創意工夫が必ず何かを見つけ出すとは限らない」という反論が必ず出てくるんだけれど、見つからなかったらみんな滅びるだけだ。それがライフスタイルを変えればいいというバカがいるんだけれど、ライフスタイルを変えたら石油は枯渇しないの? 多少ライフスタイルを変えたところで、他の条件が同じなら石油枯渇が数年先にのびる程度だし、たぶん実際にはそれすら実現できない。「このまま続くはずがない」という人たちが本当に正しいなら、放っておいても続かなくなるから騒ぐことないのに。いやでもあんたらのスローライフになるよ(たぶん実現するのはあなたたちの思ってるものとはまったくちがう悲惨な代物だけれど。スローライフとか有機とか地産地消とかは、豊かだからできるぜいたくなんだから)それだけの話なんだけどね。


The Economist セレクションインデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.1!YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)