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Courier Japon, 45
Courier 2010/03,
表紙はパリ特集で青地に赤いエッフェル塔

そろそろ現実の話をしようか:世界最高のビジネス誌「The Economistを読む」 連載第14 回

深圳ビジネスの保守化?

(『クーリエジャポン』2010/03号 #64)

山形浩生



  そろそろ世界金融危機の影響も薄れてきた――少なくともアジアの日本以外の国では。欧米も、まだまだガタガタしてはいるものの、二番底はなさそうだという楽観論がだんだん強まり、むしろ今後の方向性が重要になっている。そしてアジアは、そもそも変な金融商品にあまり手を出しておらず、傷が浅かったのと、外需の落ち込みが驚くほど内需でカバーできたことで、欧米の需要回復に頼らない経済回復を見せて、世界を驚かせている。その中でも中国は、政府がきちんと財政出動をし、中央銀行はそれにあわせてちゃんと金融緩和をして、世界の需要を引っ張り上げる役すら果たした。

 でも、中国はこのまま発展し続けられるんだろうか? それについて、少し示唆的な記事が出ていたので紹介しよう。

起業家精神いまいずこ:深圳ビジネスの保守化?

(The Economist Vol , No. (2010/01/?), "" pp.21)

  中国の驚異的な復活は三〇年前に、香港のすぐ北の深圳が「経済特区」に指定されたことで始まった。このトックの企業はあからさまな資本主義を再び採用し、国ではなく顧客を満足させることで利益をあげてよいことになった。結果としてこの農村は人口九〇〇万人の都市になり、生産ラインやミシンにあふれ、起業家の熱狂が爆発する中で、iPodからナイキまでありとあらゆるものを生産するようになった。

 だがこの記述は、現在よりは過去を正確に描いたものといえる。当然のことだが、反映は人々の態度や地元の事業環境に影響する。深圳社会科学院と香港中文大学の共同研究が一月一八日に発表されたが、それによると新規起業に係わる人の人口比率は、二〇〇四年には一二パーセントだったのが、二〇〇九年には五パーセントと激減しているのだ。「ここはもう特別な場所ではないんです」と中文大学の商学部教授ケヴィン・アウは語る。

 別の調査でも、中国の中規模都市五つが研究されたが、結果は同じだとアウ教授は語る。全体としては、こうした起業の水準は、イギリスよりは少し下、アメリカよりはかなり下だが、日本よりはずっと強い。起業が最も強いのは、ちょうど農業の次の段階に踏み出そうとしている、とても貧しい田舎の地域に見られるそうだ。

 深圳で起きていることの説明はいろいろ考えられる。ほんのしばらく前の深圳は、すべてを必要として万人を惹きつけていた都市だった。中国の他の部分から移住者が殺到し、ユニークな機会に飛びつこうとしていた。事業を制約するような法規制はまったく、もといほとんどなかった。工場はどこにでも建てられた。中国で最も有能な人々も、深圳にくればもっといい職がみつかった。

 でもそれが変わった。中国は才能ある従業員を惹きつけるだけの大企業を生み出しはじめた。当の深圳にも、グローバル企業が少なくとも二つはある。通信事業の巨人、華為技術とZTEだ。用地取得もむずかしくなり、当然ながら高価になった。残った大規模用地の一つは、小企業向けに分割されるのではなく、自動車とバッテリーを生産する急成長起業のBYDに移転された。労働者や環境保護のために多くの法規制が施行され、起業は面倒で高くつくものとなりつつある。工場が移転するにつれて、低技能労働も去った。

 ある面では、これはよい知らせだ。いい加減な泡沫起業が、もっとしっかりした大企業に置き換わっているということだからだ。人々が起業しているのも、一つの選択としてそうしているのであって、経済的にそうしなければやっていけないから、というわけではない。だが、知らせがすべてそんなに結構なものというわけではない。この調査は、他に二つの点を検討している。回答者のうち、自分たちが新しい会社で使おうとしている技術が本当に革新的――つまり古さが一年以下――だと思っている企業は、たった九パーセントしかなかった。これだと深圳は、ブラジルやロシアよりは技術革新的だといえるが、日本やイスラエルよりははるかに革新度は低い。つまり競争に弱いということだ。

 この調査はまた、民間投資家の関心が最近になって急落していることを示している。これは一部は、世界金融危機に対する当然の反応だとはいえる。だがそれが問題として深刻であることはまちがいない。というのも中国の銀行は、国営や準国営の大企業にばかり資金を提供したがるからだ。深圳は世界的に新興企業創造の代名詞となっている。でも、それがいつまで続くかは、これを見る限りではかなり疑問視されるようだ。


 実は中国が躍進をはじめたとき、いつまでこれが続くかという話をぼくも社内でしていて、その中では中国の農村人口はすごいから、あと半世紀は世界の低コスト工場でいられる、といった見方がかなり強かった。でも、そうではないようだ。経済が発展すれば労働コストは上がる。今後はどこへ向かうのか? かつて日本が、メイドインジャパンが粗造乱造の代名詞だった時代から(というと本誌の読者のほとんどは、そんな時代があったのかと驚くだろうけれど、五〇年代なんてそんなものだった)、イノベーションの拠点になれたように、中国も新しい段階に踏み出せるのだろうか。東南アジアの多くの国は、低コスト組み立ての段階はすでに過ぎたのに、その次の高付加価値に移行できずに苦労している。中国はきちんとステップアップできるんだろうか?

 さて他にここ数号で目についたのは、一連のIPCC関係の批判記事だ。最近の温暖化研究の重鎮機関からのメール大量流出とそこでのデータねつ造支持や人事介入を示唆する内容、そしてIPCCの報告書で使われた、ヒマラヤ氷河消失という報告がNGOの(まちがった)煽り記事を根拠にしていたというスキャンダルなどをめぐって、日本以外ではかなり話題が起きており、温暖化支持者たちですら、擁護しきれないと見放す声があがりつつある。

 『エコノミスト』は雑誌として、温暖化は起きているけれどあまり慌てて下手な手は打たないほうがいい、京都議定書など眉唾だ、という立場だった。それがここ二年くらい、だんだん温暖化に対する危機的な書き方が高まってきて、京都議定書に対する否定的な書き方も薄れ、対策を積極的にやったほうがいいんじゃないかという立場に慎重にシフトしてきた。

 だが、というべきなのか、それ故に、というべきだろうか。メール流出、通称クライメート・ゲートに対しては比較的冷静で、私信でフラストレーションまじりのきつい表現が飛び交うのは当然だという立場ではあったものの、その後のIPCCのヒマラヤ氷河消失年代の誤りや、パチャウリ議長の失態――各種の利益背反団体への就任やそこからの収入を公開せずにいること、各種の懸念や問題指摘に対するまともな対応の不在――についてはかなり厳しい描き方になっている。

 そしてそれは、ヒマラヤの氷河の話自体が問題になっているのではない。情報源の歪曲や裏取りのいい加減さ、トラブル発覚時の不誠実といった、ジャーナリズムとも共通する情報の信頼度確保の仕組みが機能しなかったということに、この雑誌はかなりの懸念を表明しているのだ。

 それがちゃんと指摘できるところに、この雑誌のえらさがあるし、信頼性の根っこがある。日本だとこの件について、「でも大勢に影響はないから」「細かいことだから」といった話ですませようとする例が多いけれど、その程度で終わってしまうところに、日本の科学業界やジャーナリズム業界に共通するダメさ加減があるように思うんだが。


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