世界経済危機でわたしが学んだこと。

© 2000 ジョセフ・スティグリッツ
© 2001 山形浩生
原文:WHAT I LEARNED AT THE WORLD ECONOMIC CRISIS. (The Insider)
The New Republic 2000/4/17



 来週のIMF総会は、去年の秋にシアトルの WTO 総会をめちゃめちゃにしたデモ隊をそのままワシントン DC につれてくることになるだろう。連中はこう言うだろう:IMF は傲慢だ、IMF は助けるはずの途上国の言い分なんか実は聞いてない。IMF は秘密主義で、民主的なアカウンタビリティから隔離されてる、IMF の経済「療法」は事態をかえってひどくする――景気減速を不況にして不況を恐慌にする、と。

 そしてその言い分には一理ある。わたしは 1996 年から去年(1999 年)の 11 月まで、世界銀行の主任エコノミストだった。これはここ半世紀で最悪のグローバル経済危機の時期だった。わたしは IMF が、アメリカの財務省と肩を並べてそれにどう対応したかを見てきた。そして呆れたね。

 グローバル経済危機は、1997 年の 6 月 2 日にタイで始まった。東アジア諸国は、奇跡のような30年を経たところだった。所得は急増、健康は改善、貧困は劇的に低下。識字率もほぼ全人口に広がっただけじゃない。国際科学数学試験で、こういう国の多くはアメリカより高い成績をあげた。中には過去 30 年、景気後退の年が一年もなかったところさえある。

 でも争乱の種はもうその時撒かれていた。1990 年代初期、東アジア諸国は金融市場と資本市場を自由化した――これは別に、かれらがもっと資金を惹きつける必要があったからじゃない(貯蓄率はすでに 30% 超だった)。国際的な圧力があったからだ。その圧力の一部は、アメリカ財務省からのものだった。こうした変化は、短期資本――つまり、翌日、翌週、翌月くらいの単位で最高のリータンを求める資本であって、工場みたいなものへの投資じゃない――の大量流入を引き起こした。タイでは、この短期資本が維持不可能な不動産ブームに油を注ぐことになった。そして世界中(アメリカ含む)の人々が身をもって学んだように、不動産バブルはすべていずれははじけて、しばしば壮絶な結果をもたらす。資本は、流入したのと同じくらい唐突に引き上げていった。そしてみんなが同時にお金を引き上げようとすると、経済問題が起きる。それも、すさまじい経済問題が。

 その前の金融危機群は、1980 年代に南米諸国で起きたものだった。ふくれあがった公的債務とゆるゆるの金融政策で歯止めなしのインフレが起こったわけだ。ここでは IMF はまっとうにも、財政的な規律(収支のあった予算)ときつい金融政策を課した。援助を受ける前提として、各国政府はこうした政策を実施しなきゃいけないよ、と言って。だから 1997 年に IMF は同じ要求をタイに行った。IMF のリーダーたちによれば、財政の規律はタイ経済への信頼を回復する、ということになっていた。危機がほかの東アジア諸国に広がるにつれて――そしてこの IMF の方針が失敗している証拠が山積みになってきても―― IMF はなんのためらいもみせず、戸口にやってきたトラブル国に、同じクスリを配ってまわった。

 わたしはこれはまちがいだと思った。一つには、南米諸国とちがって東アジア諸国はその時点ですでに財政黒字だった。タイでは、政府の財政黒字があまりにでかすぎて、経済が必要としていた教育やインフラ投資がおろそかになっていたくらいだ。これはどっちも、経済成長には不可欠なものなのに。さらに東アジア諸国はすでに、きびしい金融政策だって持っていた。インフレはもともと低くて、それさえ下がっていた(たとえば韓国では、インフレはとっても穏当な 4% だった)。問題は、南米みたいに政府に慎みが欠けていることではない。問題は、民間セクターに慎みが欠けていることだ――たとえば、不動産バブルでばくちを打った、あの銀行家や借り手たちだ。

 こういう状況で、引き締め手段を講じても東アジアの経済は復活しないだろうとわたしは恐れた――むしろ不景気、あるいは恐慌にすらたたき落とすことになる。高金利は、負債比率のとても高い東アジア企業をぼろぼろにするし、倒産と債務不履行はさらに増える。政府支出をカットすれば、経済はさらに収縮するだけだ。

 というわけで、わたしは方針転換をもとめてロビイングを始めた。まずは元 MIT 経済学教授で元世界銀行主席エコノミストだった高名なスタンリー・フィッシャーに話をした。かれは IMF の第一副専務理事になっていたから。また世界銀行の中で、IMFと接触や影響力のある経済学者仲間と相談して、IMF の官僚機構を動かすために手を尽くすよううながした。

 世界銀行の連中に、わたしの分析を納得させるのは簡単だった。IMF の考えを変えるのは、まあ不可能だった。IMF の高官たちと話をしたら――たとえば、高金利は倒産を増やすから、東アジア経済の信頼回復がもっとむずかしくなるよ、と説明したりすると――まず連中は抵抗する。それから、まともな反論が出せないと、連中は退却して別の反論をはじめる。いやあ、あなたは IMF の最高運営委員会からくる圧力がおわかりじゃないから、と言うのだ。この委員会は、先進工業国の財務大臣に任命された人から成るもので、IMF の融資をすべて承認するのがこの委員会だ。連中の言いぐさの意味ははっきりしていた。委員会はもっと厳しい手段を講じたがっていたんだよ、ということだ。だから自分たちは、実はその影響を和らげるように努力したんだ、という意味だ。理事だったわたしの友人たちは、自分たちこそ圧力を受けているんだ、と言う。まったく頭にくる。IMF の惰性が強すぎて止められないってことだけじゃない。なんでもかんでも隠れて話が進んでいて、変革の障害になっているのがホントはだれか、まるでわからない。職員のほうが理事を押しているのか、理事たちが職員を押しているんだろうか? いまだにはっきりわからない。

 もちろんIMFの連中は一人残らず、自分たちは柔軟な対応をするよ、と確約はした。もし自分たちの政策が本当に経済をしめつけすぎるようで、東アジア経済を必要以上に不景気に追い込むようなら、すぐに方針を変えます、と。これを聞いて、わたしは背筋に寒気が走ったよ。経済学者が大学院生に教える最初の教訓の一つが、タイムラグの重要性だからだ。金融政策(金利の上げ下げ)の影響が完全に効くまでには、12~18 ヶ月かかる。わたしがホワイトハウスで経済諮問委員会の議長をやっていたときには、全力をあげて将来の経済状況の予測をやっていた。そうしないと、今日どんな政策を提言していいかわからんのだ。後追いごっこをやるなんざ愚の骨頂だ。そして IMF 高官が提案していたのは、まさにそれだった。

 驚く方がおかしかったんだろう。IMF は、部外者にあれこれ問いただされずに自分のやることをやるのが好きだ。理論的には、IMF は援助国において民主制度を支援することになってる。でも実際には、政策を押しつけることで民主プロセスをないがしろにする。公式にはもちろん、IMF は何一つ「課し」たり「押しつけ」たりはしない。援助を受けるための条件を「協議」するだけだ。でもその協議での全権は一方だけ―― IMF の側――にあるし、IMF は広い合意形成に十分な時間をくれることはまずないどころか、議会や民間社会と広範に相談するだけの時間もくれない。ときには形ばかりの公開制すらうっちゃって、秘密裏に条件交渉をしたりまでする。

 IMF がある国に援助をしようとすると、エコノミストによる「ミッション」を派遣する。このエコノミストたちは、その国での十分な経験を持っていない場合がほとんどだ。たぶんその国のいなかに点在する村落よりも、その国の 5 つ星ホテルのほうについて直接的な詳細知識を持っているだろう。一生懸命仕事はして、夜中まで数字をはじきはする。でも、連中の仕事はそもそも無理だ。ものの数日、最大でも数週間で、その国のニーズを反映した一貫性のあるプログラムを開発しろって言われているわけだから言うまでもなく、多少数字をまわしたところで、国全体の開発戦略に関わる洞察なんか滅多に出てきやしない。もっとひどいことに、連中の数字の回し方は、必ずしもできがよくない。IMF の使う数学モデルはしばしばまちがっていたり、古すぎたりする。批判者は、IMF が経済学に対してクッキーを型枠で切るみたいなワンパターンなアプローチしかしないと非難するけど、その通りだ。カントリーチームは、その国を訪問する前にドラフト報告書をまとめちゃうのは周知の事実。ある不幸な事件があって、団員たちは別の国向けの報告書を大部分そのままコピーして、他の国にまるごと使ったんだと。そのままばれずにすんだかもしれないんだけれど、でもワープロの「検索&置換」機能がうまく機能しなくて、もとの国の名前があちこちに残っていたそうな。おっと失敗。

 IMF のエコノミストたちが、発展途上国の市民たちのことなんか気にしていないと言うのは不公平だろう。でも、IMF で働く年期の入った職員――それもすさまじく年季の入った連中ばかりなんだ、これが――は、自分たちがルドヤード・キプリングの言う「白人の重責」(訳注:現地人はどうせバカなので、仕事を作ってやったり政策を考えてやったり奴隷に使ってやったりするのは宗主国たる白人の責任で、いや植民地搾取も楽じゃない、という議論。)を背負っているみたいな振る舞いをするのだ。IMF の専門家は、自分たちが訪問する対象国のエコノミストよりも頭がよくて、教育水準も高くて、政治的な動機も少ないと信じこんでいる。でも実は、そういう国の経済指導者たちはかなりレベルが高い――多くの場合、IMF 職員なんかよりも頭もいいし教育だって上だ。IMF 職員はおおむね、トップクラスの大学の三流学生である場合が多いのだもの(この点ではワタシを信じなさい。わたしはオックスフォード大学、MIT、スタンフォード、イェール、プリンストンで教鞭をとったけれど、IMF が最高の学生のリクルートに成功したことはほとんど一度もないのだ)。去年の夏、中国で電気通信政策のセミナーをやった。少なくとも観客の中の中国人エコノミスト三人は、西側の最高の頭脳と同じくらい高度な質問をしたぞ。

 時がたつにつれて、わたしの苛立ちも山積みになった。(世界銀行が救済パッケージに、本当に何十億ドルも貢献しているんだから、それなりに言い分も聞いてもらえると思うだろう。でも、何を言っても断固無視された。危機に影響を受けている国々の言い分同様に)。IMF に言わせると、自分たちが東アジア諸国に求めているのは、不景気時に財政収支をバランスさせてくれということだけだそうな。だけ、ですと? クリントン政権がつい先日、財政バランスを義務づける法案を退けるために議会と壮絶に戦ったばかりではないですか。さらにクリントン政権の中心的な議論は、不況を前にしたら、多少の赤字支出は必要だろうということではなかったですかな。これはわたしを含め、ほとんどの経済学者たちが院生に過去 60 年にわたってずっと教えてきたことだ。正直いって、「経済下降に直面しているタイの財政的な立場はどうあるべきか?」という試験問題に IMF の答えを書いた学生がいたら、そいつには不可しかやらん。

 危機がインドネシアに広がるにつれて、わたしはますます心配になった。世界銀行での新しい研究を見ると、あんなに民俗的に分裂した国で不況になったら、ありとあらゆる社会的・政治的なもめごとに火がつく恐れがある。だから 1997 年末に、クアラルンプールでの財務大臣と中央銀行運営者との会合で、わたしは世界銀行が精査した、慎重に用意された声明を発表した。過度に収縮的な金融プログラムや財政プログラムは、インドネシアの政治的社会的もめごとを引き起こす可能性がある、というこのだ。またもや IMF は動かざるコト山のごとし。IMF の専務理事ミシェル・カムドシュは、公開の場での発言を同じことをその場でも述べた。東アジアは、そういうのを我慢して抜け出さなきゃ、メキシコだってそうしたでしょ、とのこと。さらに、メキシコは短期的にはあれだけの苦痛を味わったけれど、でも出てきたときには昔より強くなっていたよ、とまで述べた。

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 でもこれはどうしようもない比較だ。メキシコが回復したのは、別に IMF が弱い金融システムを強化させるよう無理強いしたからじゃない。金融システムは危機のあと何年も弱いままだった。メキシコが回復したのは、アメリカへの輸出が急増したからで、それはアメリカの経済が急成長したからで、さらには NAFTA のおかげでもある。一方のインドネシアの主要貿易相手国は日本だ――日本は当時も、そしていまだに、どうしようもない状況にはまったままだ。さらに、インドネシアは政治的にも社会的にもメキシコよりずっとヤバい状況にあったし、民族抗争の歴史もずっと深い。そして抗争が再燃すれば、巨額の資本流出が起きる(これは IMF ご推奨の通貨フロー規制緩和のおかげで楽になった)。でも、こういう議論はすべて馬耳東風。IMF はそのまま先へ進み、政府支出削減を求めた。おかげで、食料や燃料といった基本必需品に対する補助金が、まさに収縮政策のおかげで補助金がいつになく必要とされたその時に、削減されることになった。

 1998年1月には、事態があまりにひどくなってきて、世界銀行の東アジア地域副総裁ジャン・ミッシェル・セヴェリノがアジアの経済混乱を表現するのに、あの忌み嫌われるrことば(recession、不景気)と d ことば(depression、恐慌)を使ったほどだ。当時財務省副長官だったローレンス・サマーズは、事態を実際以上にひどく見せるといってセヴェリノに抗議したけれど、でもあの時起きていた事態を説明するのに、ほかにどう言いようがあったね? 影響を受けた国の中には、産出が 16% 以上低下したところだってある。インドネシア企業の半分は実質的な倒産状態かそれに近い状態で、結果としてインドネシアは、低い為替レートがもたらした輸出機会を活用することさえままならない。失業は急増、ほとんど 10 倍になったし、実質賃金は暴落――しかも基本的に何のセーフティーネットもないような諸国でだ。IMF は経済的な信頼を回復するどころか、地域の社会的な網の目をぶちこわしつつあった。そして 1998 年の春から夏にかけて、危機は東アジアから拡大して、この世で最高にヤバい国に広がった――ロシアだ。

 ロシアでの騒動は、東アジアでの騒動と重要なところで共通していた――なかでもIMF とアメリカ財務省が、それに油を注ぐのに活躍したという点で。でもロシアでは、油はずっと早くから注がれ出していた。ベルリンの壁の崩壊以降、ロシアを市場経済に移行させるにあたって、二種類の考え方が出ていた。一つはわたしが属していた学派で、この地域についての専門家の山にケネス・アローをはじめとするノーベル賞受賞者もいた。このグループは市場経済の制度的なインフラストラクチャーが重要だと強調していた。契約を強制する法的インフラから、金融システムが機能するための規制構造まで。アローとわたしは、10 年前には中国とその市場経済移行プロセスについて議論してきた National Academy of Sciences のグループにいた。われわれは競争をはぐくむことが大事だと強調した。単に国有企業を民営化するだけじゃダメだ。市場経済へはもっとゆっくり移行するのを支持した(ただし、ハイパーインフレを防ぐために、たまに強い手段も要ることには同意したけれど)。

 二番目のグループは、市場への信頼はやたらに強いくせに、市場の下部構造の詳細――つまり、市場が効率的に動くための必要条件――についての理解がなってないマクロ経済学者が中心だった。こうした経済学者連中は、ふつうはロシア経済の歴史や詳細についてはほとんど知識がなかったし、またそんな知識は必要ないと思っていた。かれらが依存している経済的ドクトリンの最大の強みと、最終的な弱点は、そのドクトリンがあらゆる場合にあてはまる――あるいはそう思われている――ということだった。制度も、歴史も、所得の分配もまるっきり関係ない。よい経済学者は万能の真理を知っていて、こうした真理を隠すような事実や細部の羅列なんか見通せる、というわけだ。そして万能の真理というのは、市場経済への移行過程にある国にとって、ショック療法が効くということだ。クスリが強いほど(そしてそれへの反応の苦痛が大きいほど)回復もはやい。少なくとも、それが理屈だった。

 ロシアにとっては不幸なことに、財務省と IMF 内部の論争に勝ったのは後者だった。あるいはもっと正確に言えば、財務省と IMF は、公開の論争が絶対にないよう手をまわして、めくら滅法に二番目の路線を突き進んだ。この路線に反対する人たちは、相談を受けなかったか、相談されてもすぐに切られた。たとえば経済諮問委員会では、ロシア政府に密接なアドバイスを与えて、ロシア政府で要職につくことになった若い経済学者たちともいっしょに仕事をしてきたピーター・オルスザグがいる。かれこそ、財務省や IMF が必要としている専門技能を持った人物だった。でもかれがあまりに知りすぎていたせいか、かれはほとんど相談を受けていない。

 次に何が起きたか、知らない人はいないだろう、1993 年 12 月の選挙で、ロシアの有権者たちは改革者たちを大きく後退させた。そしてこの後退から、かれらは未だに回復しきっていない。当時ロシア政策の経済以外の分野を担当していたストローブ・タルボットは、ロシアが「ショックを受けすぎて、治療が少なすぎた」と認めた。そしてそれだけショックを受けても、ロシアはちっともまともな市場経済へと移行していない。IMF と財務省がモスクワに無理強いした急速な民営化は、オリガーチの小集団が国家資産を握る結果を生んだだけだった。IMF と財務省はロシアの経済インセンティブを動かしなおしはした――でも、その方向はまちがっていた。市場経済が花開く制度的インフラにあまり注意を払わなかったので――そしてロシアへの資本の出入りを簡単にしたので―― IMF と財務省は、オリガーチたちの強奪の基礎を作ってやった。政府が年金生活者に払う金もない時にオリガーチたちは資産を削り取って国の貴重な資源を売り払った金を使って、それをキプロスやスイスの銀行口座に送り込んでいた。

 アメリカはこうしたひどい事態の進行に手を貸していた。1998 年半ば、まもなくロバート・ルービンの後任の財務長官に指名されることになるサマーズは、ロシアの民営化推進の親玉アナトリー・チュバイアスといっしょに公共の場に現れるということをした。こうすることで、アメリカはロシアの国民を窮乏させているまさにその勢力と肩を並べて見せたわけだ。反米感情がすさまじく高まったのも無理はない。

 最初は、タルボットの発言もなんのその、財務省と IMF の盲信者たちは相変わらず、問題は治療が少なすぎることじゃなくて、ショックが小さすぎることだと言い張り続けた。でも 1990 年代半ばを通じて、ロシア経済は内破を続けた。産出は暴落して半減。あの暗澹たるソヴェト時代末にすら、貧困比率は人口の 2% でしかなかったのに、「改革」のおかげで貧困率は 50% にまで急騰し、ロシアの子供の半分以上が貧困ライン以下で暮らしてることになった。治療策を軽視しすぎたとIMF や財務省が認めだしたのはつい最近だ――でもいまになってかれらは、自分たちも前からそう主張していたのだ、と言い張るようになっている。

 今日なお、ロシアは絶望的な状況にある。高い原油価格と、長いこと敬遠されてきたルーブルの切り下げのおかげで、多少は足場が回復してきた。でも生活水準は、市場経済への転換が始まった時に比べてずっと低いままだ。国はすさまじい不平等に悩まされ、この体験に嫌気のさしたロシア人のほとんどは、自由市場への信頼を失った。原油価格が暴落すれば、これまでのわずかばかりの進歩もまちがいなくすぐに逆転するだろう。

 東アジアのほうはまだましだ。それでもなお苦闘は続いている。タイの債務の40%はいまだに不良債権化している。インドネシアは不景気の泥沼にはまりきったままだ。東アジア最高の優等生である韓国においてすら、失業率は危機以前よりずっと高い水準のまま。IMF の提灯持ちどもは、不景気が終わったということは IMF 政策がうまくいった証拠だと主張する。バカ言え。いずれはどんな不景気だって終わるのだ。IMF のやったことと言えば、東アジアの不景気を深く、長く、つらくしただけだ。それが証拠に、IMF の処方箋をいちばん忠実に守ったタイは、独自路線をとったマレーシアや韓国に比べてずっと悪い結果に終わっている。

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 賢い――ほとんど天才的な――人たちがどうしてこんなにひどい政治を作っちゃったんでしょうか、とよくきかれる。理由の一つは、こういう賢い連中が賢い経済学を使っていなかった、ということだ。ワシントンのエコノミストたちが使っているモデルが、いかに古くさくていかに非現実的か、わたしは何度も唖然とさせられたもんだ。たとえば東アジアの危機の核心には、倒産と債務不履行の恐怖みたいなミクロ経済現象があった。でもこうした危機を分析するためのマクロ経済モデルは、ほとんどがミクロ的基礎を持っていなかったので、倒産はまったく考慮に入れられなかった。

 でもダメな経済学は、本当の問題の一症状でしかなかった。本当の問題は、秘密主義だ。頭のいい人も、外の批判やアドバイスに耳を閉ざすようになると、もっとバカなことをしやすくなる。政府にいて一つ学んだことがあるとすれば、それは専門技能が一番重要と思われるような領域でこそ、オープン性がきわめて重要になる、ということだ。もし IMF と財務省がもっと広くチェックを受け入れていたら、その愚行はずっとはやく、ずっとはっきりしていたかもしれない。レーガンの経済諮問委員会委員長だったマーチン・フェルドシュタインや、レーガンの国務長官ジョージ・シュルツなどの右派も、ジェフ・サックスやポール・クルーグマンやわたしに加わって政策を批判した。でも、 IMF が自分たちの政策は見直しの余地なしと言い張って、そして無理に言うことを聞かせる制度構造もない状況では、われわれの批判はほとんど役に立たなかった。もっと怖いことに、IMF 内の批判者たち、特に直接的な民主主義上のアカウンタビリティを持った人々でさえ、つんぼ桟敷におかれていた。財務省は自分の経済分析や処方箋について傲慢すぎて、大統領の目に入るものにさえきつい――きつすぎる――コントロールをかけやがる。

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 オープンな議論は、アメリカのマスコミではまだほとんど取り上げられない、重要な問題をいろいろ指摘しただろう。IMF と財務省が進めた政策のうち、グローバルな経済の不安定さを増すような政策はどれだけあっただろうか?(財務省は経済諮問委員会の反対を押し切って、韓国の自由化をごり押しした。財務省はホワイトハウス内部の戦いには勝ったけれど、韓国と世界が払わされたツケはでかかった)。東アジア諸国に対する IMF のきつい批判は、実は IMF 自身の犯罪性から目を逸らすためのものだったんじゃないか? いちばん重要な問題として、アメリカ――そして IMF がああいう政策を強行したのは、それが東アジアの助けになるとわれわれ、というかかれら、が思ったからなんだろうか、それともそれがアメリカと先進産業国の金融上の利益になると思ったからなんだろうか? そして、もしわれわれが、あの政策が東アジアを助けると思っていたのなら、そう思う根拠はなんだったんだろう? こうした論争の参加者として、わたしはその根拠を見られる立場にいた。そんな根拠はどこにもなかった。

 冷戦終結以来、地球の隅々にまで市場の福音を伝えるよう託された人々には、すさまじい権力が集まった。こうした経済学者、官僚、係官たちは、アメリカやその他先進産業国の名の下に行動するけれど、かれらの使うことばは、ほとんどの一般市民にはわからないものだし、また政治家たちはそれをわざわざ翻訳しようとはしない。経済政策はある意味で、いまやアメリカが世界の他の部分と行うやりとりの中で、いちばん重要な部分かもしれない。それなのに、世界最強の民主主義国における国際経済政策の文化は、民主的じゃないのだ。

 来週、IMF の外で叫ぶデモ隊が言おうとするのはそういうことだ。もちろん、街頭はこういうきわめて複雑な問題を議論するには、必ずしも最高の場所じゃない。一部の抗議者たちは、IMF の係官たちと同様に、まともな公開議論なんかに興味はないだろう。そして抗議者たちの言うことが全部正しいわけでもない。でもわれわれがグローバル経済の運営を任せる人々―― IMF や 財務省の人々――が対話を始めずに、自分たちへの批判にきちんと耳を傾けなければ、物事は今後もどんどんまちがった方向に向かうことだろう。わたしは、それが起きる現場を見たんだぞ。

ジョセフ・スティグリッツはスタンフォード大学経済学教授(休職中)で、ブルッキングス研究所のシニアフェロー。1997 年から 2000 年にかけて世界銀行主席エコノミスト兼副総裁。1993 年から 1997 年にかけて大統領経済諮問委員会にも所属。


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ポール・クルーグマンも、アメリカがアジアの危機をもっと悪化させたことを説明しています。


訳者の蛇足

む、むごい、というのが一読した感想ではございましょうが、いやー、もうスティグリッツさん、IMF をタコ殴りでございます。秘密主義、ワンパターン、拙速、ツールも思考も古すぎ、おまけに就職してるのも三流の連中ばっか―― IMF いいとこまったくなし、だなぁ。しかもそれを、スティグリッツが本当に怒りにまかせてぼこぼこにしております。あの巨体がここまで激怒すると怖いよー。
 ただ別に IMF に義理立てするわけじゃないが、念のため言っておくと……

 ただしその後きいた話だと、世銀の中でもスティグリッツは浮いていたそうなので、世銀の方針とスティグリッツの言っていることがちがうのも、まあむべなるかな。これについては大野泉『世界銀行-開発援助戦略の変革』(2000、NTT 出版)が参考になるそうな(かじたに氏 TNX! ん……かじたにってどっかで聞き覚えあるゾ。どなたでしたっけ?)また、世界銀行からもスティグリッツは快く思われていなかったことについては、このSalon.comの記事「スティグリッツを黙らせる」がわかりやすい。

スティグリッツのいろんな論文や雑文は無数にあって、まあこんなところが比較的よくまとまっているかな。

 しかしながら、IMF に関する限りここに言われていることはかなり当たっているらしいねー。その後いろいろタレコミが入ってきて、アメリカの大学の経済学部では、就職先の見つからない学生に教授が「しょうがないなあ、IMF にでも行くか」と言うそうだ、とか、某 KO のスーファミにいる IMF 出が売りのセンセイも、アXぶりが知れ渡った人で PhD を取ったときには万人が裏取引を疑い、そんな人でも入れたってことで IMF も名を挙げたとか挙げなかったとか。で、なんだって、日本は銀行のチェックに、IMF を入れるとか入れないとか言ってるねえ。おい、大丈夫かよ。ただし日本の場合、たぶん人材的には IMF に輪をかけてダメな連中が多いから、まあ少しはましかもしれない。

 あと、ローレンス・サマーズがあんまりいい評価されていないのはびっくり。ひょっとして仲悪いのかな? やっぱ川上 VS 川下の確執というのが密やかにあるのかな。


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