("Economies of Truth", The New Republic, 2000-05)
Issue date: 05.15.00
Post date: 05.08.00
(2008/06/16)
ロバート・M・ソロー 山形浩生訳
要約:成長理論の重鎮ボブ・ソローによるジェイコブス『経済の本質』の容赦ない批判。同書はあまりに経済学について無知。中小企業の多様性が重要、という主張は必ずしもまちがってはいないが、それについてまともに分析ができていない。表面的な類似にこだわった小話で事足れりとして、それ以上の深い話をきちんと考えようとしない。このため、読んでもまったく勉強になりません、とのこと。
ジェイン・ジェイコブスの本で他に読んだことがあるのは『都市の経済』(邦題:「都市の原理」)だけだ。悪くなかった。彼女は人間スケールの近隣やストリートライフ、創造的なごちゃごちゃ、そして――なかでも特に――多様性を支持していた(たぶん人種的多様性も含んでいたんだと思うけれど、でも彼女がもっぱら述べていたのは、相互に補い合う小規模事業の繁栄だ)。企業の作る町、ゾーニングによる均質性、通行人にそっけない建物、味気ない秩序、そして過剰に官僚的な計画一般に反対していた。それは都市生活の魅力的なビジョンだった。(訳注:これはどう考えても『都市の経済(都市の原理)』の話ではなく、『アメリカ大都市の死と生』のかんちがいだろう。)
でもなんとなく覚えているのだけれど、一方で彼女は乱暴な一般化や、歴史のいい加減な読解、複雑な問題についての過剰な確信なんかの傾向もあった。残念ながらこうした傾向は、ジェイコブスの新著ではますます幅をきかせるようになっている。本の形式もそれに拍車をかけている。ジェイコブスはこの本を、友人四人とその一人の父親による「訓話的な対話」として構築している。本文はすべて、大げさな会話、賢しらな独白、たまのぶりっこ調ばかり。ソクラテスがハイラム・マレイ四世みたいな口のきき方をしていたら、プラトンは今日忘れ去られていたことだろう。
ある本が本当に言いたいことは、それが何に反対しているかを見れば推測できることもある。ジェイコブスは、自分が反対しているものについては明言している。序文で彼女は、「人間はあらゆる面で、完全に自然の中に存在し、自然の秩序のまっとうな一部として存在している」と書く。それなのに経済学者や産業家や政治家たちは「理性と知識と決意によって、人類が自然の秩序をねじまげ、出し抜くことができる」と考えているそうだ。読者はこれを、ハイラムの権威の下で、わずか 10 ページ目に再度聞かされることになる。「自然は人間生活の基盤を提供し、その可能性と限界を決める。経済学舎たちは、この現実を未だに理解していないようなんだ」
わたしの知っている経済学者――かなりの数ですぞ――のだれひとりとして、人類が自然の秩序をねじまげたり、出し抜いたりできるなんてことは考えてもいない。そのほとんどは、これがいったい何を言わんとしているのか理解するのにさえ一苦労するだろう。何か不可能だと思われていたこと(つまり自然の秩序からはずれたと思われていたこと)を観察したら、まずはその観察結果を疑うだろう。そしてそれが確認されたら、自然についての信念を改めるだけのこと。
これを述べるのは一度だけにしようと思うけれど、ジェイコブスやその登場人物たちは、「経済学者」たちが何を考えて何をするのかについて、ものすごく無知をさらけだしている。たとえば初めのほうで、口の減らないハイラムは「収穫逓減の法則は間違いのない厳しいものだが、それの裏返しの法則がなければ、経済生活についてはほとんど何も説明できないんだ。その法則は、対応型代替の法則とでも呼ぼうか。人々は高価になりすぎたリソースについては、代替物を探したり考案したりする、ということだ」。これを読んだ人には想像もつかないことだろうけれど、経済学の学生は一人残らず、価格がもたらす代替効果については死ぬほど講義をうけて教科書でもくどいほど説明を受けるのだ。鶏肉と豚肉の代替、アルミとステンレスの代替、輸入品と国産品の代替、労働とレジャーの代替。こうした無知は、本書に典型的なものだ。経済の本質についての本なら、ひっくり返そうとする分野について最低限の理解はあらまほし。でも本書にはそれはない。
経済の本質とはなんだろうか、そして経済学とは何を扱うべきか? これについてはあまり語られていないので、浸透を通じてほのめかされる答えを拾い出すしかない。ジェイコブスは、進化が新しい種を作りだし、種の内部から有機的な形態を変えるのに夢中だ。彼女によれば、一般には汎用的な形態から特殊化した形態が発生する。特殊化すると局所的な現状の環境に対する適応度が上がるからだ。この累進的な差異化は絶えず続くプロセスで、一回限りのできごとではない。そしてこの文脈での「環境」は、単なる気候や地勢といった無機的な事実だけを指すのではない。いくつもの種が共進化し、その一部の変化は他の種の適応変化における機会や報酬を提供することになる。生物種は発展の網の目を形成する。
進化的な発展をこういうふうに描くとなぜジェイコブスが大喜びなのかはわかるだろう。それは彼女流の、都市における――あるいは彼女好みに言えば――居住地における、健全な経済発展の記述とはっきりした類似性を示しているからだ。中小企業の増殖と(限られた)成長、消費者需要の変化で生じたニッチを見つけ、相互に供給する機会をつかみ、財やサービスとともに情報を交換する。これは確かに、経済発展への興味深く重要な満足のいく道筋の一つだ。
経済がそういう動きをするなら、たぶん経済学者もこのプロセスを勉強すべきだろう。でもここで、ジェイコブスやその登場人物たちには思い当たらなかったらしき問題が登場する。このアナロジーによる自然愛好家的な考え方には、最初から限界があるのだ。ジェイコブス的なものの見方をしたとしよう。すると、相互依存型の製造業とサービス企業が無数に発達するのは、植物や動物のコロニーや種が無数に生じて共発展するのとよく似ている。さて、そこで話をやめてもいい。あるいは、もう一歩先に進んでもっと深く理解しようとしてもいい。
もう一歩進んだら、経済力学の根底にある細かい仕組みが、生態系の力学を記述するものと同じだと考えるべき理由は皆無だということがわかる。それどころか、まったくちがうと考えるべき理由がいくらでも出てくる。経済行動はもっぱら意識的で将来を考え、理論まみれで、目標主導で、しかもその目標は時にはるか将来で間接的だったりする。動植物の行動はそういう面はかなり少ないか、まるでない。ついでに言うと、わたしはジェイコブスが生態学についても経済学よりましな理解をしているのか、確信が持てない。彼女の参照文献はもっぱらジャーナリズムや通俗書だ。現役の生態学者のやっていることを見たら、もっぱら偏狭で、技術的でつまらないと思うだろう。そしてかれらの手法の多くは、実は経済学からの借り物なのだ。
おもしろいことに、経済学者と生態学者はしばしば似たような数学ツールを使う。これは一部は、数学ツール自体が限られていて他にないからでもあるし、一部は適応性主導の進化と、意識的だが盲目的な目標達成が、似たような動きを示すからだ。ただしその中身と重要性はかなりちがうことも多い。ムール貝は一部の干潮域では他の生物種を滅ぼしてしまう。なぜそうなるかを理解しても、一部の産業が東アジアに根付いて華開くのに、他の産業はかつかつで生き延びるだけ、一部は消え去ってしまうのか、というのを理解する役にはほとんどたたない。産業の進展や生死を、淘汰圧に刺激された進化プロセスとして考えても別に悪くはない。でも、それがこの知的な問題のすべてだと思いこんでしまったら、それは大まちがいだ。このスケールでの経済の動きは、文化のもたらす事業家行動の規範、投資銀行の役割、人気あるビジネススクールの講義の中身といった、ムール貝の個体群には見られない数多くのものを無視して理解するわけにはいかない。
「開発は、共発展に依存している」とハイラムは(強調つきで)述べる。開発経済学者なら、一人残らずそんなことは知っていると思うぞ。さらに重要な点として、この発言は、それが実際に機能する仕組みについては何の手がかりも与えてくれない。経済学では、この話は「外部性」「forward and backward linkages」と産業連関表を強調する。でもジェイコブスは実際の経済学的(あるいはそれを言うなら生態学的)分析には興味がないらしい。自然愛好家的なアナロジーでやめてしまい、それがもたらす安心や満足だけで事足れりとしている。
それでいいのかもしれない。少なくともそれがあれば、中小規模で土着で適応型の知識ベース事業を支持する有益な敬意の根底にはなる。そうした事業所がなければ、われわれみんなヤマザキパンしか食えなくなるというわけだ。ジェイコブスとしては、そういう敬意さえ持ってくれればいいのかもしれない。が、ハイラムはもっと野心的だ。そしてかれが生態学についての一般論を経済行動の理解に翻訳しようとすると、結果はろくでもないことが多い。
たとえばかれは、局所的な(近隣、都市、地域、国など)経済活動と、輸出入との関連について、混乱して無知丸出しの論考を始める。さて、これは少なくとも二百年にわたり議論されてきた話だ。たぶん最初はデビッド・リカードかもっと前かもしれないし、最近ではポール・クルーグマン、アンソニー・ベナブルズ、藤田昌久による『空間経済学:都市・地域・国際貿易の新しい分析』という新作で論じられている。これらの著者たちは、小話いくつかで考えるのをやめたりはしなかった。規模の経済や輸送費や需要パターンといった絶え間ない力をはっきりとモデル化しようとして、経済活動の地理性を決定づけようとした。ジョン・スチュアート・ミル、アルフレッド・マーシャル、ジェイコブ・ヴァイナー、バーティル・オーリン、ジェイムス・ミード、ゴッドフリード・ハーバラーといった連中は、貿易パターンについて多少は役にたつことを思いついたんじゃないかとだれしも思うはずだ。でもハイラムは(そしてもっと不思議なことに、経済学者であるはずのかれの父親は)これを見落としたらしい。
輸出入にこだわると、変なかんちがいをしやすい。特に局所的な話をしているときにはそうだ。小さな孤島を考えて欲しい。島内では何らかの経済活動パターンがあるけれど、外部との接触はない。輸出入の話なんか思いつきさえしないだろうし、経済年報にも登場しないだろう。さて、島の真ん中にでたらめに線を引いて、東島と西島に分けよう。経済活動のパターンには何ら変化はないけれど、いきなり「輸出」と「輸入」が生まれる。そして計測された輸入財の量は、そのでたらめな線をどこに引くか次第で決まってくる。
もっと根本的な問題は:なぜ経済活動の構成は世界中でどこも同じじゃないのか? なぜそもそも専門特化や地理的な分業なんかが起こるのか、ということだ。だれでもわかる理由としては、気候や地勢や輸送力や資源なんかに地域的な偏りがあるからだ。同じく重要なのは「規模の経済」だ。ある種の生産は、かなりの大量生産をしたほうが効率を最大化できるというのは技術的な事実だ。そしてそれが十分高ければ、その費用をカバーするだけの価格では地元市場で消費しきれないほどの生産ができる。そこで各地域は専門化する。自分たちの作ったものの一部(大部分かもしれない)を他の地域に売り、そのかわりに他の地域の産物を買うわけだ。
さらに現代世界では、専門化は純粋に歴史的な偶然から生じるかも知れない。ある都市がヘアドライヤーをたまたま偶然に生産し始めるとしよう。別に他の地域よりヘアドライヤー生産についてコスト優位性があったわけじゃない。でもそれが学習曲線をたどり、ちょっとした技術的な改善を実現し、ドライヤー生産を補うサポート企業を集め、そうこうするうちにコスト優位性が確立して、他の新興地域はなかなか太刀打ちできなくなる。
地域はもちろん消費財を輸入するけれど、原材料や仕掛品も輸入して、それを加工して再輸出する。ハイラムはこのプロセスを表現するのに「輸入拡張」という用語を発明する。でもこれは、ごくふつうに行われている「付加価値の追加」という活動でしかない。「輸入品」だろうとなんだろうとどこでもみんなやっている。中間財がある企業から別の企業へと手を変えるだけの話だ。善良なるハイラムくんは、統計機関が不届きにも自分の欲しい経済指標を集計発表しないことを残念がる。その指標というのは、輸入拡張と資源利用に対する輸入拡張の比率だ。でも、この比率の分子は、まともに計算できるところでは実はほぼ確実に計算されているのだ。ある地域の付加価値累計は、その地域の総産出 (GDP) と呼ばれている。アメリカ商務局はこれを州ごとに計算している。都市ごととか、それ以下の規模だと集計費用がかかりすぎるし、プライバシーの問題が出てくる。分母となると、輸入は貿易に障壁があるところでないと計測しにくい。ホーボーケン地方への総輸入をどうやってはかろうか。そこに住んでいるハイラムのお父さんが、ジャージーシティで散髪したら、それはサービスを輸入していることになる。どうでもよくありませんか?
さらにジェイコブスは、得体の知れない主旨不明の概念を持ちだしてくる。「自己再給油」というのがその呼び名だ。これはどうやら、既存の輸入財をもっと加工して再輸出品にするとか、現在の輸入財の一部を(必ずしも同じでない)地元産品で置きかえることにより、追加の輸入財を「つかまえて」、輸出量は変えずに同じお金で別の輸入財を買う、ということらしい。これが給油と何の関係があるのか、そしてそれがなぜいいのか悪いのか(あるいは適正な量がどのくらいなのか)は最後まではっきり述べられない。地元生産の多様化は、もちろん維持可能な生活水準の向上には役に立つだろう。でも多様化しすぎたら、規模の経済を失うリスクが生じる。他の地域の生産者とどこまで競争できるか、というのは地元産業の効率性をはかる便利な指標だ。このどの点についても、ジェイコブスの本はいささかなりとも目新しい論点を提供してくれない。そしてその分をあいまいさで補ってくれる。
結局のところ、『経済の本質』は経済の本質について、語呂合わせ以外はあまり教えてはくれないと思う。たとえ話の寄せ集めは大したものになってはいない。その一部は、これまで述べてきたように怪しげなものだ。一部は深遠かも知れない――つまりは、何らかの行動的な価値を反映しているかもしれない――が、どんな価値の反映やらわかりようがない。結局得られるのは、生活の質の一要素は、特に所得水準がかなり高くなってくる場合に重要になってくるものとして、相互に支え合う小規模の地元の市場重視生産活動の健全性が挙げられる、というお話だ。この経済セクターの健全性を推進するのは、大規模資本主義にありがちなものとはちがった前提や制度が必要かもしれない(でもこうした活動を大企業の片隅で再現することは、容易ではないだろうが可能かもしれない)。
こうした真実は、現代経済をおもりする中で見落としがちなことなので、ジェイコブスがそれを思い出させてくれるのはありがたい。でも、こうした使命を考えようとする人が悩むべき問題を、彼女が考えてみた様子は一切見あたらない。職人やニッチ生産者たちに対抗して活動してるのは、規模の経済による生産だ。わたしだって、将来の技術で何が可能になるかは見当もつかない。でもいまのところは、多くの生産分野では製品一つあたりの単価は、工場の規模にともなって下がることははっきりしている。これが永遠に続くわけじゃない。ほとんどの場合、工場が手に負えないほどでかくなったら、製品単価は上がり始める。でも一部の産業では「最適」な工場規模はかなりでかい。
必要以上に大きな工場をひいきにしたり、中小企業に無用な障害を設けているような、規制などの力がいまの経済には働いているだろうか? あるいは小さすぎる企業を推奨してしまうような規制はあり得るだろうか? もっと一般的には、大規模生産が適切となる領域はどこなんだろうか? それが本当に効率いいのはどの分野? 中小企業の生産と大規模生産のそれぞれの長所が、労働者や消費者の忠誠をめぐって競争できるような公平な競争環境とはどんなものだろうか? 公共政策はどうすればそうしたものの創出に貢献できるだろうか? ハイラム、あんたは引っ込んでなさい。他の人に話をさせろ。頼むから。
ロバート・M・ソローは、MITの経済学名誉教授です。1987 年にノーベル記念経済学賞を受賞。
昔この本をうっかり読む前に誉めて、その後読んで、「しまった」と思っていたので、罪滅ぼしに。この人の『アメリカ大都市の死と生』はホントに記念碑的な名著、なんですけど……
あと、ワタクシの某駄文が「口が悪すぎる」との評価を一部でいただいているのですが、これだけの大物が、まあなんというか一応はアマチュアの本をここまで上から目線で余裕かましつつ踏みにじって踵でぐりぐり地面にねじこむような残虐きわまりない書評を書いているのに比べれば、アマチュアがプロにたてつこうとしているわけでございますし、むしろ上品で、必死な感じがけなげで可愛らしい、と思ってはいただけませんでしょうか?