松原隆一郎へのお返事:ケインズが本当に言ったこと

2004/7/17-8, 7/21, 11/30 加筆
山形浩生

 松原隆一郎が、またリフレ政策についてあれこれ書いている。最近の景気回復チックな動きが、自説(というのが何なのかぼくは未だによくわからない. その後ちょっとわかったような気はする)と整合的だ、と言って。だからそれはリフレ派の主張に反する、ということらしい。本当にそうなのかについては、専門家が十分に議論してくれるだろう。ただ、景気回復の原因の一つをかれは、政府の円高阻止のための介入だとしている。これはまさにリフレ派の提案している政策の一つだったし(大野他やスヴェンソンの議論を参照)、それで景気が回復してるんなら、リフレ派の処方箋通りだと思うし、それを否定する理由にはまったくならないとは思う。

さらにかれはスティグリッツ/グリーンワルド『新しい金融論』(東京大学出版会, 2003)を使って、あれこれ述べている。さてぼくはこのスティグリッツ/グリーンワルドについては注意が必要だと考えている。この本の序文で、二人は開放経済下では流動性トラップは発生しないから、流動性トラップっぽく見える現象には別の説明が必要、というのを一つの出発点にしている。要するに国内に投資機会がなければ資本はさっさと外国に流出するはず、ということだ。ところが、国際的な財や資本移動があっても、流動性トラップが十分に可能であることについては、クルーグマンの「復活!」できちんと示されている。ということは、スティグリッツ/グリーンワルドの前提は必ずしも十分なものではないかもしれない、ということだ。そしてそれをいまの状況にあてはめるには、注意が必要だということだ。専門家ならなおさらね。

で、この本の中でスティグリッツたちが「金融緩和しても景気回復しない」と言ったことで、松原はスティグリッツがリフレ政策を否定したと思っている。それが専門家かね。このクルーグマンによる Q&A の最初のところを読んでごらん:

 多くの人はどうやら、ぼくの論文が単に「日本はむちゃくちゃ金を刷れ!」と言ってるだけだと読んだらしい。たしかにぼくは過去にそう論じたこともある(What is wrong with Japan?、邦訳「日本さん、どうしちゃったの?」 )し、そういう政策が悪いとはぜんぜん思わない。でも、いまのぼくは「日本のはまった罠(トラップ)」の分析から、どんなに大きくても「現時点の」金融拡大はたぶん効果がないと考えている。必要なのは、信用のおける形で「将来の」金融拡大を約束することにより、インフレ期待をつくりだすことだ。

 現時点での金融緩和だけじゃ無駄だ、というのはクルーグマンの主張したリフレ策の出発点だ。これでリフレ派がはしごをはずされた、なんて言うのは、そもそも松原隆一郎がリフレ政策のなんたるかを理解していないということをあらわにしているだけだ。スティグリッツ/グリーンワルドの主張は、むしろクルーグマンをはじめリフレ派の主張を追認しているものである見込みが高い(付記:実際に全部読んだ人も、これを肯定している。スティグリッツ/グリーンワルドは、要するにフィッシャー的なデットデフレの考え方からリフレを肯定しているそうな)。が、これについても十分に専門家があれこれしてくれるだろう。そして、その専門家の議論の結論が(出るとして)どう出ようとも、それは別にスティグリッツがリフレ政策を支持しているということを否定するものじゃないし、かれの教科書を薦められないことにもならない。ぼくが中谷巌の e- なんたらを馬鹿にしていても、中谷マクロを特に否定しないのと同じことだ。スティグリッツの『経済学』の第二版はいい教科書だよ。日本版についている、日本に関する付記は当然読むべし。第三版はひどいと思うけど。でも、それもここの本題じゃない。

ぼくが問題にしたいのは、当然ながらぼく自身がだしに使われている部分だ。その部分は以下の通り:


 いっときはリフレ派の肩を持っていた山形浩生君なんかは、朝日の書評委員会では同席して酒を飲んでいるが、最近では同じく委員である青木昌彦さんの著書を持ってきてサインをもらったりしている。青木さんは『ミシュラン』ではボロクソ書かれていたのだから、さすが機を見るに敏ではあります。まあ、ボロ船から逃げ出すのは、早いに越したことはない。バカさゆえにイケイケだった 連中がどう落とし前つけるのか、楽しみではありますな。

追記。そういえば先日の朝日書評で、山形君はこんなことを書いていた。ケインズの有名な文句の引用だ。

・・・ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ」と述べたけど・・・

 山形君は専門外のヒトだから知らないんだろうけど、ここでケインズが言っている「トンデモ経済学者」って、リフレ派のことなんだよね。リフレ派応援しているヒトがこんなこと引用していいのかしら?


 で、まず問題はこの追記の部分。ここで松原隆一郎が言っているのは、山形は出所もろくに知らずに自分の首を絞めるような引用をしている、ということだ。さて、この部分からわかること。:

 なぜそうわかるかというと、ぼくはこの問題の引用部分(はおろか本全部)をちゃんと読んでいるからだ。専門外のヒトをなめてはいけないよ。

で、その出所とは何か? それはジョン・メイナード・ケインズ The General Theory of Employment, Interest and Money, (1936, 手元にあるのは 1953 年の HBJ 版)。『雇用、利子、お金の一般理論』(専門外なんで既訳にはしたがいません)、通称『一般理論』。ちなみに、朝日新聞編集部は、引用されている文章が山形的パラフレーズだと思って括弧をはずせと言ってきた。そうじゃない。これは原文そのままの直訳引用なのだ。問題の引用は、同書最終章、24 章の一番最後の段落に出てくる。『一般理論』結論の章だ。さて、そこで批判されているのは本当にリフレ派だろうか。

ちがう、と言ってもみんな信用しないだろう(反論だから、「その通りでございます」なんて言うわけないものね)。だからこの章の内容を、段落ごとに要約していこう。どういう文脈で出てくるのか、こうすることでずっとわかりやすくなるはずだし、ごまかしもできなくなる。


24章 結語:『一般理論』から導かれるはずの社会哲学について

Part I

Part II

Part III

Part IV

Part IV


さてどうだろうか。わかりやすいでしょ。この調子で『一般理論』を全部まとめると、ずいぶん親切なんじゃないかと思うんだけど。

それはさておき、ここまで読んで、ここで言われているトンデモというのがリフレ派だ、と思うだろうか。本章にはリフレ派なんて全然出てこない。基本的には、ここでの引用は一般論だ。正しいアイデアはちゃんと述べておこう、長期的にはそれが影響力を持つんだから、という話だ。

そして十歩譲ってこれが何か具体的なものだとしたら、それは自分の『一般理論』のアイデアが採用されることに対する障害となっている発想のはずだ。本章で触れられているそうした発想は、ある程度重なるけれど三つある。

  1. 金持ちが貯蓄したほうが富は増える、という発想(そしてそれに伴って、富の不平等はいいことだ、とする説)
  2. 政府の完全雇用実現における役割否定
  3. 自由放任主義と金本位制

どれもリフレ派とは関係ない。

さらにもう一つ。引用したちょっと前の部分に、「現代だと、人はかなり根本的な診断を喜んで受け入れようとしているし、可能性さえあれば目新しい考えを喜んで試そうとしている」というのがある。これは何のことだろうか? もちろん社会主義のことだ。これもリフレ派ではない。

結局のところ少なくともこの部分に関する限り、ここでのトンデモ経済学者というのがリフレ派だ、なんていうことを示すものはまったくないのだ。

さて松原隆一郎は、ぼくを門外漢だと馬鹿にする。うん、それはそうだ。で、専門外の素人としておたずねしますが、この部分、あるいは三〇歩譲って『一般理論』のどこを読むとこの引用部分の「トンデモ経済学者」というのがリフレ派だと読めるのでしょうか? まさかと思いますが、専門家なのにケインズの『一般理論』すらまともに読んだことがないということでしょうか? もちろん、物理学者が全員『プリンキピア』を読んでいるわけでもないし、読まないこと自体は特に問題ではないかもしれませんが、読んでないなら明らかにまちがった思いこみでいたいけなシロウトを小馬鹿にするのは、専門家として軽率とのそしりを免れないのではありませんでしょうか? 専門内がその程度なのであれば、下手な専門内でいるよりは、専門外の素人であるほうがずっとましだと思います。素人には素人の矜持があるのですよ。特にこの素人は。

だいたいだねえ、リフレ政策は基本的には、ケインズ理論とそれを図式化した IS-LM モデルから導かれるものだ。ケインズの理論がなければそもそもリフレ政策なんかあり得ない(というのはちょっと言い過ぎだが)。だからケインズ理論を最初に確立した『一般理論』の中に、そこからその後に派生したリフレ派の批判が入ってるわけがなかろうに。もちろん、経験則が理論に先行することはあるし、往々にして当人より理論のほうが偉大だということはあるので、ケインズがどこかでリフレ政策に反対した可能性はないわけじゃない。でもそれはぼくの引用部分とは関係ない。さらに実際はどうでしょ。ケインズとリフレ政策の関係については若田部『経済学者たちの闘い』(日本経済新聞社, 2003)を見てほしいな。そんな否定的な関係ではなかったはずだよ。それとも専門内には別の定説があるのでしょうか?

(付記:今日(というのは 2004/7/21)、朝日新聞の書評委員で松原隆一郎とちょっとこの件でお話をした。この文章をまだ読んではおらず、学生さんからのご注進でその中身を聴いただけ、とのこという断りつきではあるけれど、でもかれの主張はこうだ:

  1. ケインズは、貨幣数量説を否定した。
  2. リフレ派の理論的根拠の一つは貨幣数量説にある。
  3. またリフレ派が先駆者としてあがめるフィッシャーは貨幣数量説の主要な提唱者だ。
  4. したがってケインズはフィッシャーおよびその貨幣数量説を否定しており、ひいてはリフレ派を否定しているのだ。

さて……ケインズが貨幣数量説を批判したこと自体は事実だ。でもそれはまず、ぼくの引用の中でのトンデモ経済学者(defunct economist) というのがフィッシャーのことだ、ということにはならない。上のまとめでも見るように、ケインズは古典派経済学をまったく否定したわけじゃない。ある限られた前提のもとでは成立する、ということは認めている。したがって、ケインズ的にはそれは defunct とはほど遠い。クルーグマンの本を見ればわかるけれど、まるっきりのトンデモ理論と、トンデモではなくてもお話にならないへりくつと、ある状況下で仕方のないまちがいと、まちがってはいても傾聴すべき理論とは、きちんと分ける必要がある。批判されてりゃトンデモ、なんてことはないのだ。またぼくの知る限り、貨幣数量説はそれなりによく成立している説だ。もちろん、これにミクロ的な基礎付けがない、という批判があるのは知ってるけれど、でもこれがそこそこ上手に成立してることは否定しがたいはず。専門外のヒトとしてはあらゆる研究を網羅したわけではないけれど。

さらに、貨幣数量説が批判されたことと、そこからこの引用での批判対象がリフレ派だ、という議論とはかなり距離がある。まず貨幣数量説からリフレ派には結構距離がある。すでに述べた通り、リフレ理論はケインジアン的な IS-LM の枠組みから十分出てくるんだから。クルーグマンが最初に貨幣数量説に頼ったのは、合理的期待形成と新古典派の枠組みの中で流動性トラップがあり得ることを理論的に示すための方策だ。さらに、ケインズがリフレ派を批判していたにしても(金本位制との関係で見れば、そうは言えないと思うけど)、ここでの引用の示すものがリフレ派だという議論はさらに遠い。さらに、それがリフレ派だとしても、思想がいつの間にか人に影響するのだと主張する浅羽通明の本に関する書評での引用として不適切だということにはならない。ぼくはあちこちで「地獄への道は善意で舗装されている」というレーニンのことばを引用するけれど、社会主義はだめだったとするぼくがこんなの引用していいんだろうか? もちろんいいに決まってるじゃん。したがって、やっぱり松原隆一郎の揶揄はまとはずれだ。)


ついでに、青木昌彦について書いておこう。『エコノミスト・ミシュラン』での青木昌彦の扱いは、ぼくは不当だと思っている。かれに対するちょっとしたコメント(ちなみに、扱いは松原隆一郎の言うような「ボロクソ」なんてほど大きなものじゃない)は明らかに勇み足。ミシュランでは、かれは日本のバブル経済を擁護したことになっていたけれど、でもこれはちがう。日本型経済システムに経済的な合理性がある、ということを示すのと、その日本経済がたまたま陥っていたバブルを擁護するのは話がまったく別物だ(ちなみに青木昌彦の日本型システム論が正しければ、ぼくはそれは構造改革による景気回復の主張に対する強い反論にもなると思う。たまたまいまの環境にあわないからというだけで、合理性のある経済構造を安易に変えるのは、下手をすると環境がかわったときの適応能力を下げるもの)。一方で、青木昌彦がいまのデフレを中国からの安い商品流入のせいにしている、と稲葉振一郎が自分の掲示板に書いていた。もしそうなら、それは青木昌彦が明らかにまちがっている。が、ぼくはその問題の文章を読んだことがないので、これについてはなんとも言えない。(付記:問題の発言は、「経済セミナー」2003 年 5 月号にあるとのタレコミ。TNX! また、それが書かれた掲示板は黒木掲示板で、書き込みの主も稲葉振一郎ではなく某声の出るゴキブリだった、との指摘。 Sorry! No offence, huh?)

が、別にぼくが青木昌彦ファンなのは、そんなこととはまったく関係ないのだ。青木昌彦のやってる仕事は、ぼくのやってる海外援助の話とかなり深く結びついている。いま、開発経済では制度が大流行で、二言目には制度が出てくる。発展のためには制度改革を! そして、制度改革という話が出た瞬間に、話はまったく進まなくなるのだ。制度って何? 法律から組織から宗教から人々の思いこみまでなんでも制度。制度ってのは、ぼくに言わせれば「その他すべて」だ。「その他すべて」ってどう改革するの? あらゆる条件をお膳立てしてあげないと発展が実現しないなら、それはつまり発展なんか無理ってことだ。日本だってアメリカだってイギリスだって中国だって、あらゆる条件なんかそろってなかった。往々にして、制度は発展の途上でだんだん整備されてくものなのだ。制度制度と騒ぐことが、いまや単に自分たちの無力さを隠すための、なんかわかったふりをするためのお題目となっちゃってるのだ。

そういう話を忘年会で青木昌彦にしたら、かれも最近の「制度」議論の濫用には行き倒れを感じている(© 大友克洋)とのことで、これから制度のなんたるかをきっちり示してやる! といきまいていて、大喝采。いけいけ青木昌彦! それが実現した暁には、世界銀行の嫌味なエコノミストどもに目にものみせてくれる! というわけで期待してますファンです。サインもらって光栄です。が、それとリフレ派云々とは何の関係もないのですけれど。他のところでもそうだけど、ぼくは松原隆一郎とはちがって、リフレ憎けりゃ袈裟まで憎いなんてことは思わない。こっちでは意見がちがっても、それはそれで別のところでは意見があうことは当然あるし(というかあらゆる点でぼくと意見が同じやつなんかいるもんか)、仮に青木やケインズが反リフレ派だろうと、リフレ支持の立場のままサインをもらったり引用したりすることに何も問題はないと思うんですが、専門内だとそうはいかないものなんでしょうか。不自由ですね。ちなみにぼくの書評委員任期もあと半年強なので、今度記念に松原隆一郎のサインももらおうかなと思ってましたが、あらぬ誤解をされるといやなので、やめときますわ。

山形的な松原理論の理解

 その後、あちこちで松原隆一郎の書いたものを見るとだね、かれの言ってるのはこういうことだ:

  1. 日本が不景気になったのは、人々が消費しなくなったからだ。
  2. なぜ消費しなくなったかというと、リストラ/終身雇用廃止とかペイオフ解禁とかで、人々が信用できる制度がつぶれたからだ。

さてこの理屈が変なのは……リストラが先にあって消費が冷え込んだっていう理屈はどう考えても順番逆じゃないの? 消費が冷えて売り上げが下がったから、じゃあしょうがないからコスト削減でリストラしましょうって話になるんでしょ。こういうと、いやでも消費落ち込みの皮切りはバブル崩壊で云々、というんだけどね。でも消費が落ちたって、みんないきなりリストラ始めたりはしなかったんだよ。松原的な制度が変わり始めるまでにはずいぶん間があったんだ。松原の理屈だと、バブル後遺症の消費落ち込みと、その後のリストラによる消費落ち込みでフェーズが明らかに別れるはずだけど、そんなのがとうてい説明できるとは思わないなあ(こう言うと、いやバブルでも制度が変わって、とか言い出すんだよ)。さらに、じゃあどうすればいいのか、という話なんだが:

  1. 構造改革とかダメ。だってこれは既存の制度をさらに破壊するから。
  2. 調整インフレはだめ。人々が信用している円という制度がダメになるから。

じゃあ、何をすればいいの? うん、松原隆一郎の処方箋は、何もするな、ということ。だまって手をこまねいていろ、ということ。ほっといてその「制度」とやらが勝手に生えてくるのを待つしかないそうな。で、それって何年かかるの? 松原は教えてくれない。で、「これってただの何もしない現状追認論じゃないっすか?」というと「いや構造改革を批判してるから現状追認ではない」というんだけど、何もしないことを推奨するのはどう見ても十分追認だと思うなあ。構造改革なんてたいしたことしてないでしょ。さらになんで最近のちょっと景気回復してきたっぽい動き(でも早速落ち込みかけてますな)がこれを支持する議論になるの? 制度は生えてきましたか? 構造改革もリストラもがんがん進んでるんですけど。これもさーっぱりわからん。まあたぶん、ぼくは松原の議論を十分に理解してないんだろうね。

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