「情報資本主義」のリアリティ
写真:対談する2人

松原隆一郎 × 山形浩生  
(社会経済学者/東大助教授) (翻訳・評論家/シンクタンク研究員)
今後数年間のあいだに、至近な例でいえばインターネット上でのサイバーコマース(電子決済)の成熟化、デジタルキャッシュの本格運用化などによって、社会の重心はデジタルネットワーク経済へと加速度的に移行していくだろう。

新しい貨幣システムや金融システム、あるいは労働スタイル、人間関係、家族観、教育・倫理観……、そこには我々の歴史上未曾有の世界が待ち受けているようでもある。

資本主義を早足で走り抜けてきた私たちは、さらに過酷とも思える速度を要求する情報資本主義のバーチャル空間を、揺るぎなきリアリティをもって疾走しなければならないのだろうか。

われわれ現代人は、次なるサイバーエコノミックアニマルへと快楽的に脱皮し変態することができるのだろうか……。

新人類世代の気鋭の社会経済学者、松原隆一郎氏に、サイバーカルチャーに造詣の深い翻訳・評論家、山形浩生氏が問いかける。


日本人が築いてきた経済優位性にとって
パソコン化、デジタル化に旨味はない

山形● まず根本的な認識として、デジタル化やコンピュータ・ネットワークの導入によって、経済の基本的なところが「革命」というに値するほど変わると思ってい らっしゃるのかどうかお聞きしたいのですが。これがホントに農業革命、産業革命に匹敵するほどのものなのかよ、という気がしてるところもあるので…。

松原● 経済とひと口にいっても、国によって文化によって、経済のかたちはいろいろで、ドイツやイギリスのようにまだまだ職人的なモノづくりが中核にある経済文化 もあれば、アメリカのように大量生産、大量消費型の文化もあるわけで、パソコン化に向いている社会というのは、大ざっぱにいえば、大量生産・大量消費型の ほうであると思います。

アメリカの場合は特に、多民族国家ですから、言語の共通性すらなくなりつつある。そこで生産性や教育の効率を上げるための、情報を規格化していく手段として、パソコンは劇的な変革をもたらしたといえます。

じゃあ日本はどうかというと、大量生産は70年代までで飽和状態になり、セブンイレブンの資料によれば、昭和49(1974)年に大きな変化があって、買 い手の欲求に合わせて市場を作っていかなければならないという、売り手市場の崩壊が起こる。ここから多品種少量生産という、日本独特の経済文化が花開くわ けで、これは世界市場でみても日本が初めての現象だったのではないか。多様な情報を、あうんの呼吸で規格化させていくなんていうのは、もともと日本人の心 性に向いてたんだと思います。

だから日本人の経済優位性にとって、ことさらパソコンに旨味はないだろうし、アメリカほどにパソコンは劇的なものではないだろうというのが、僕の直観的な理解です。

日本の新製品というのは、多いときで1年間に3万アイテムもあったんですよ。アメリカではせいぜい3〜4千アイテム。もう桁が違う。そもそも日本人が、新 製品というものについて異常な情報処理をしていたのは紛れもない事実です。だからいま、消費行動が二極分化している。1つは、この情報量に耐えられないか ら、すでにある程度セグメントされたものをセブンイレブン的なところに買いに走る。もう1つは、通販のような極端に多様な情報を求める。

消費行動におけるデジタル革命というのは、ほとんど無限にあらゆる情報が手に入る通販機能がベースになるわけだけど、ホントにそれを使いこなせるのかというのは、はなはだ疑問です。

山形● 情報の縮減機能というのが、なかなか提供されないところが問題で、Yahooをはじめ検索機能はものすごくたくさん出てるけど、これぞエージェントと言え るような決定的なものはないです。じつはほとんどの人たちは、あらかじめ整理された情報を待っていて、結局フタを開けてみれば日本からのアクセスがいちば ん多いのが、朝日新聞のサイトとか既存のメディアのホームページに集中してしまうということになってしまう。

そこにいま、なんらか吸引力のある別種の権威をもったデータベースとか、検索エンジンであるとかをつくろうというのを、国のプロジェクトでも取り組んでますよね。ホントのところは、情報民主主義なんて言ったところで、みんな「神としてのAI」の登場を待っていて、諸手をあげて認知されるのかもしれない…。

松原● 使い勝手の悪さからいったら、パソコンは本当にひどいよ。大学に科研費でパソコンと周辺機器入れたんだけど、情報効率が上がり始めるまでのあの無駄な労力!これでも前より少しはマシになってきたんだろうか。

山形● LOTUSと一太郎に頼っていた一昔前と、あまり変わってませんね。とにかく周囲に1人2人マニアな人を確保しとかないと、使えないという状況は変わらな い。MISだなんだって、日本では情報化ブームの波は次々起こるんですが、情報投資をしても、それに見合った経済効果は期待できないんじゃないかという、 ナサケない調査予測が出てきたりもするわけです。

まあ、コンピュータを生産財と考えるとむなしいですから、消費財と考えれば納得できるという考え方もありますが。

松原● ケインズが言ったみたいに、「毎日穴掘って埋めてりゃ、景気は上がる」と同じことですかね。それで経済回ってりゃいいけど。企業の人はいったいパソコン買って何に使ってるのか、聞きたい。



「情報資本主義」を解く鍵は
「納得」のメカニズムにある

山形● ニコラス・ネグロポンテが、「アトムからビットへ」と いう言葉で、これからはモノ作ってるだけじゃだめだ、情報を発信していかなきゃならない時代だと言ってますけれど、コンピュータがいくら情報を大量処理、 高速処理できても、その情報が意思決定の判断材料として使われないと価値が出ないし、そこで意思決定の高速化もしくは精確化がされて、初めて我々人間に とってメリットがあると言えると思うわけです。

たとえばシミュレーションの計算が高速化されたり、類似事例や参考事例がすばやく検索されれば、もちろん情報分析や情報収集の短縮の役には立ってはいるん だろうけれど、じつは人間の意思決定の本質というのは、もっと化学的、生理的に頭の中で「ンーッ」となる過程がある。そこに踏み込まないかぎりは「情報革 命」とは言いえないのではないかというのが、僕の持論なんです。恋愛にせよ仕事にせよ、〈決断〉〈納得〉に関する肉体的な時間のあり方というのがあって、 そこの問題ぬきには進まないと思うんです。

松原● それ、すごく面白いところです。人間の意思決定って、ちっとも合理的になってない。そこには「信用」と「情報」という次元の違う2つの要素が絡んでいて、 「情報」というのは具体的な思考の表れで、それが「信用」の次元になるにはかなりのジャンプが必要なんです。この「信用」というのは、じつはどんな情報に よっても100%保証されないという類のもので、毎日太陽が東から上ってきたからといって、明日もそうだとはいえない。銀行のいう信用も似たようなもの で、表面的にはいろんな情報を集めてはみるけれど、最終的な信用は、納得によるしかない。

じつはこの納得とか信用のレベルが、国により文化によって違うというところに、本質的な問題があると思います。たとえばアメリカでは、契約書にサインした かどうかが重要で、それに対して約束を果たしていくことが即、信用。日本の場合には、おそらくもっと長期的なつきあいや雇用関係のなかでの信用が重視され る。これが中国だとまた全然違って、このどちらもダメだし、国家も金もダメ、血縁だけしか信用されない。それぞれに、納得のいく物語のメカニズムがまった く違います。

結局のところ、情報経済、情報資本主義がいかなるものかというのは、すべてこの納得のメカニズムの問題に集約されるんじゃないでしょうか。ここが説明できなければ、たぶんこの先、情報化も説明がつかないし、資本主義も説明がつかないだろうと思います。

山形● その一方で、資本主義そのもの、市場経済そのものは、そこそこの普遍性をもって、暴力的に世界に浸透していますよね。世界経済という共通の判断が行われる土台からくるコンピュータ文化の世界性というものは、あるんでしょうか。

松原● それはむしろ、デジタルネット社会における貨幣の進化、つまりデジタルキャッシュといわれるものが今後、どれぐらい暴力性をもって進化し浸透していくかによるんじゃないでしょうか。

貨幣の抽象理論というのは、はるか昔から何も変わっていないわけです。もちろん表れとしては、米とか石とかから、金銀になり、金本位性ではむずかしくな り、また経済はどんどん広がっていっちゃうしで、兌換券にしてみたらばなんとなくうまくいっちゃった。現実のモノへの信用から、信用の対象が金になり、国 家になり、そして今日のクレジットカードの時代に至っては、個人への信用でもなんとか行けちゃってると。

じゃあ、デジタルキャッシュの時代になったら、どういう信用でいくのかというのがいちばん不安な点であって、暗号鍵をいくら開発したところで、それが信用とか納得を保証してくれるわけじゃない。

原子力にしたって、技術的に安全だとか失敗例がないとかいうことじゃなくて、なんか納得しきれなくて不安になるわけですから。アメリカのような社会は、な んでも納得してしまって恐ろしいことずっとやてきたから、デジタルキャッシュも速やかに納得してしまうように思いますけど、日本人はなかなか納得できない んじゃないですか。だいたい銀行にお金を預けることすら理解できないという、美空ひばりみたいな人すらいるんですからね。おそらく、これはまあどっかで納 得するんでしょう。そのための制度がどう生み出されるかがまだ明確になっていない。



デジタルキャッシュの行く手に待つ
『ナニワ金融道』的世界

山形● いまのお話で、デジタルキャッシュの信用といった場合、個人のさらに下のレベルはない以上、所詮はクレジットカードの信用とか認証をさらに精緻化させただ けの代物なんでしょうか。あるいは、デジタルキャッシュによって経済がいまと違う様相になるとしたら、どんなことが考えられうるんでしょうか。

松原● これは須藤さん(須藤修・東大社会情報研究所助教授)なんかも言ってることだけど、おそらくまず銀行のシステム自体が変わるんじゃないかと思います。貨幣 の定義自体は広がっていて、夜9時までCDもやってるし、もはや預金もクレジットカードも、貨幣とほとんど同じ感覚で使えるわけですよね。それでもいまは まだ、これらの流れはすべて中央銀行の管理に収まる範囲ですんでるわけです。デジタルキャッシュになったら、これはおそらく銀行が個々にお金を発券すると いう話になってくるでしょう。

首根っこを中央や政府に押さえられることのない、このハイエク的世界においては、ダメな貨幣はどんどん淘汰されていくようになる。まさに自由競争に任せる資本主義の極みで、こうなったら何が起こるか、僕らはまだ体験してないからわからない。

香港では現に、複数の銀行に発券させてるから、香港の人たちには分かってるのかもしれないけど。

山形● いま出てきているデジタルキャッシュは、まだクレジットカードやプリペイドカードの変型版とか、口座の自動引き落しの延長という感じで、貨幣としての迫力には欠けるものばかりですね。

松原● そう、まだね。たとえば、テレホンカードとかイオカードとかが、どこでも換金できるようになったら、これは『ナニワ金融道』じゃ ないですけど、至るところで貨幣発行やってるような状態になる。いまは、そうできないよう歯止めが効いてるけど、貨幣がズルズルに発行されればインフレも 起きるだろうし、銀行が倒産して取り付け騒ぎも起きるだろう。そのとき我われはどうしたらいいのか、中央の管理がなかったらどうなるのか、よく分かってな いんですよ。そういう懸念はあっても、たぶんそっちの方向へ流れとしては進んでいくんでしょうね。

山形● 『バーチャル・コミュニティ』などで自主管理民主社会の理想を唱えるラインゴールドみ たいな人もいますが、あれは初期のまだアカデミックで洗練された匂いのするインターネットの第一陣のコミュニティであって、「象牙の塔」のネットワーク が、徐々に、比較的その近くにいた普通の人々に開かれていったことによって生じた幻想であった。人と人が知的に交流し、ときに助け合い、ときに感動的な奇 跡すら呼び起こす美しき村=グローバル・ビレッジどころか、結局『ナニワ金融道』的世界まで行ってしまうのか(笑)。

松原● そういう学者たちが相互にギブアンドテイクで、知的資源を提供し合ってきたような神聖さとは、もはやまったく別の次元で、なんとか金儲けの仕組みができないかという画策がされてる。

山形● しかしながら、美しきネットワークの贈与と交換のなかから生まれてきた、フリーウェア、シェアウェアの「タダでいいよ、気に入ったらお金払ってね」という 市場というのは、なかなか捨てがたいものがあって、僕はそこに淡い希望を抱いているんです。シロウトの作ったものが世界を席捲しちゃうわけで、この動きを ベースにしたネットワーク的な経済システム、流通システムというのがうまく成立していかないかと思うんですが。

松原● もともとインターネットというのは公共財ですよね。あらゆる情報が開示され、本当に必要な情報が出てこないかぎり、電子紙芝居の域を出ないわけなんだけ ど、政府にしても企業にしても、なかなか情報をオープンにしようとしない。企業には必ず中核の資産というのがあって、それはたいてい部外秘であり、発表さ れるときは特許にせよ商品にせよ、お金を取って利潤追求するのが当たり前と思われてますよね。タダで公表するのは、なんらかの見返りが見込まれる場合に限 られてくる。

だけど、実は100年も前に、経済学者のアルフレッド・マーシャルが著書の中で、いまおっしゃられたような考え方をすでに提示しているんです。1つ1つの 企業では経済安定できない、たくさんあるということで個々の企業も儲かるという、「産業全体の発展と、個々の企業の発展は同時並行する」と理論づけてい て、まさにこれは、情報共有とネットワークの発想なんですね。みんなで知恵とお金を出しあってラーメン横丁を作ったほうがいいんだ、そうしないと個々の企 業の発展もありえないんだということです。

いまインターネットで金儲けしようと思ったら、この相乗的発展の盛り上がりというのを作らないとだめなんじゃないか。もちろん決して企業の中核の資産がな くなるわけではなくて、そこからどれほどのものを、共有財として抽出していけるかということです。先頃、中国の企業がパソコン開発の途中経過を公表して話 題になりましたけど、情報を開示して、それでもなお残るものがあるという発想なんでしょうね。こういう潮流のなかで、日本の企業が自分をどこにどうフォー マライズしたらいいか、いつまでも位置づけられないままだったら、ネットワーク経済からは取り残されていくと思います。



中間管理職は、日本型組織のなかで
“エージェント”を担ってきた

山形● 情報のオープンのしかたでは、アメリカに比べれば日本のほうが隠したがる傾向が強い。そういう日本の企業文化という面からみた場合、そもそもデジタル化への相性は、どのように働きうるんでしょうか。

松原●それはたぶん、プラスの面とマイナスの面があって、まずプラスの面からいうと、中間管理職の職務を明らかにすることに役立つでしょうね。

いま中間管理職はダメだダメだと言われてるけど、そんなことないと思う。日本人が集団で動いてきたのは決して意味のないことではなくて、中核になる情報を 集団でつくるのが、日本人はうまかったんです。おそらくそこでは中間管理職という人たちは匿名でもって、上と下の間を取り持ってグループを動かしている。 たとえば、松下電器がパン焼き器をつくったときに、現場の開発者の女性がパン屋さんからヒアリングしてマニュアルをつくるんだけど、なんかうまくできな い。作業を見てると、どうも言ってないことをやってて、パン屋さんもそれを言葉にできないので、彼女はそれを覚えて帰って、会社で上司にやってみせたら、 こねるときにひねりを入れてるんじゃないか、それを“ひねりのばし”と呼ぶことにしようと、上司が決めたんです。で、この決めたということが非常に重要 で、松下の場合、松下幸之助が言った社是にかなっているかどうかが、商品化の決定に大きなチェックポイントなんだけど、部長会に持っていって、「これは “ひねりのばし”という技術で社会に貢献します」というロジックが、松下という企業の価値観に適合していくわけですよね。

こういう、現場と会社の間をとりまとめて、新しい言葉をつくり、それでもって人を組織していくということを、中間管理職はやってきてると思うんです。この役割とか機能は、デジタル化されても残っていく部分であり、パソコンも活用されていくでしょう。

ところが一方で、中間管理職のなかにも、どうしようもない人たちもいて、情報の隙間をウロウロしているだけのダメ中間管理職の存在というものがその中で明らかになっていき、そういう意味では、企業も積極的にデジタル化を進める意義があるんじゃないですか。

山形● 電子メールが導入されはじめたころ、ボトムは直接、社長とコミュニケーションできるようになったわけだから、もう中間管理職はいらないとかいう議論もあり ましたけど、実際は山のようなメールを社長が読めるわけないし、それを社長がホントに独りで判断できるのかという疑問もある。

松原● ボトムのアイデアを社長がすくい上げたソニーのウォークマンみたいな例もなかにはありますけどね。

中間管理職はやはり、企業の中で情報の縮減機能を担ってきたわけですよ。社長に「下のものがああ言ってます」と、有能な人であれば、社長に通じる言葉に翻 訳して届けるエージェントの役目を果たしてるんです。ただ、有能な人も含めて、ミドルの人材流出が起こったときに、果たしてその有能さがA社と同様、B社 でも発揮できるかというと、危うい部分もあります。松下語の通訳からいきなりホンダ語の通訳に転身できるかという…。その辺は、情報化によって中間管理職 の機能が明確化され普遍化されることで、有能なミドルのスキルアップにもつながると思います。



戦後民主主義精神に培われてきた
日本人のリアリティとは……

山形● もう国も会社も信用の根拠にはならないらしいから、これからは自分の信用をいかに上げるかが問題なんだというのは、みんなが思ってることのようですね。話題の『脳内革命』とか『人格改造マニュアル』も、そういう文脈のなかで読まれていると思うんです。

松原● 日本国憲法にも、「自分のことは自分で決めろ」って書いてあるわけですし。でもアメリカ人がそういうなら分かるけど、日本人はもともとそういう民族じゃないのに、無理して言っちゃってるから、いろいろ大変なんだけど。

女子高校生たちの援助交際ってやつ、あれ僕は、日本国憲法の「自己決定」「自由意志」「子供も大人も同権」の粋を表現した最たるものだと思うんです。戦後民主主義にのっとった全き正当性をもっているものであって、誰も彼女らに反論することはできないんじゃないかと。

しかし、個人でコントロールできるものには限界がある。たとえば社会的な信用とか責任ですけど、それについてのリアリティはこのところ完全に崩壊してるわけです。

山形● バーチャル、バーチャルって、最近なんにでもつけますけど、それがつけば新しいのか、なにか未来的なリアリティを意味するのか、いったい日常的にはどんな意味で使われてるのか、いまいちよく分からないところがあるんですけど。

松原● 海のものは海に行かなきゃ食べられなかったのが、山の中の温泉でまぐろが食えるとか。通販だって、もはや現物も売り手の顔も実際には見ることなく買い物し ているわけですから、これはバーチャルなんです。現物を見ないで金払うって、これはすごいことですよ。見合い写真だけ見て結婚決めるようなもんです。

だからサイバーモールの開発にしても、なんとかしてリアリティもたせようといろいろ工夫するじゃないですか。CGを駆使して本物の店らしく意匠を凝らすと か、ブラブラ歩き回って冷やかせるとか。でも、いろんな決断の決め手になってる最終的な直感力とか、総合力とかのリアリティをすべてバーチャル化するって いうのは、相当むずかしいんじゃないかな。

山形● リアリティという言葉の使い方なんですけど、たとえば温泉行ってまぐろが食えたら、僕は逆に、その新鮮な驚きのなかに、自分の認識のリアリティを感じるとか、そういうふうにとらえているんですけど。

松原● たぶんリアリティという言葉には2種類あって、1つはいま言われたような、まったく新しい刺激との出会いを認知し認識する体験、もう1つは、すでにある記憶とか期待とかについての確信がより深まる体験、この2つにリアリティを感じるんじゃないか。

比喩的にいえば、旅行して目を覚ましたときに、あれ自分はいまどこにいるんだろうと、そのときやっぱり、山の温泉でまぐろ出されたら、人間の認識は揺らぐ わけですよ。いついかなる状況に遭遇しても、日本国憲法にのっとって自分の決定に自信を持ち続けていられるならば、まぐろにも新鮮なリアリティを感じられ るんだろうけど(笑)。つまり何が言いたいかというと、この流通の拡大のなかで、日本人は意思決定に自信がもてないでいる、だから、はっきりと「いま自分 はここからあそこへ向かっているんだ」という確信を求めて、社長も宗教へ走るし、オウム信者も出る。で、かろうじて自信を保っている女子高校生が援助交際 で戦後民主主義のイデオロギーを支えていると、これが日本人のいまのリアリティじゃないですか。

山形● たしかに自由とか許され感というものが、野放図に広がっていってても、許されていることに対する自分なりの根拠というものを、どうやって決めていったらいいのか分からない。

あるいは社会のなかで、自分の居場所と自分自身とをどう関係づけていっていいのかわからなくなってる。そういう関係のつけ方が揺らいでいることが、果たして良いことなのか悪いことなのかという判断は、そろそろ迫られているんじゃないですか。

松原● フロイトは、人間は幼少期の原始的な親子関係のなかでいったん親−子−性という三角形を安定させることによって、社会に出てから自分と外部とをうまく関係 づけられるんだと言ったわけですが、これをドゥルーズ=ガタリという人たちは、『アンチ・オイディプス』という本の中でいきなり否定しちゃった。そんなも のはないんだ、子供はいきなり社会の関係の中に存在していて、原始的な親子関係なんてないんだと。でもこれはやっぱり無理があると思うんですね。

いまの日本人の問題も、原始的な親子関係のあり方とか、そういう基礎固めからふたたびやり直さないとだめなんじゃないかと思います。家族の形態にしたっ て、戦後の核家族政策なんて全然定着してなくて、最近はみんな子供を育てるのに、親の手を借りてるじゃないですか。新しい大家族制とか、子育ての制度とか の作り直しも必要じゃないですか。



時代の流れは、
「多メディア化+現実主義」へ

山形● 最近読んだ本に、『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』と いう、タイトルはさておき、なかなかの傑作があって、その中で言われてるのが、メディアの情報に受け身的にさらされて育った人間が親になったとき、子供に 対して役立つ情報を事前に与えることができない傾向があると。なにか事が生じたあとにしか、それに必要だった情報を与えることができない。これは、情報と その要求を明示的にしか出せないマスメディアに原因があるのだと。マクルーハンの「メディアはメッセージである」を実証的に証明した名著だなと感心したん です。

松原● それはおそらく、全共闘ぐらいの親とその子供との対立に、まさに典型的にある図式ですよね。全共闘世代は、テレビやラジオ、雑誌といったメディアのメッ セージの影響を受けすぎちゃってて、家族のなかに、家族独自のルールをもちこむという情報行動ができなくなっている。「パリの五月革命がどうした」とか 「人権がどうした」といった自分の身辺的な状況とは無関係な情報にばっかり反応しすぎちゃった結果でしょうか(笑)。

山形● いや、まさにそのとおりですよ。

で、僕はそういう「メディアはメッセージだ」が、これまでのマスメディアとは違ったかたちで、パソコン通信とか新しいメディアによって、もっとポジティブ に人間へ影響を与えるメッセージが発信され、社会のつながりを修復していくようになる可能性はないのだろうかと、ふと考えるんです。

松原● マスメディアの崩壊は、実際にはもう始まってて、みんなが紅白歌合戦を見るということももうないし、阪神大震災の時も、よど号ハイジャックのような視聴率 にはもうならない。多メディア化とともに、メディアにまるで一貫性がなくなっていて、CATVにしても、オンデマンドのビデオサービスのように、みんなが 好き勝手な時間に、好き勝手な番組を見るといった、パーソナルなメディア環境がどんどん進んでいっています。

こういう多メディア化していく状況を、みずから体現する社会派という人たちも世の中に現われてきた。たとえば田中康夫さんのように、神戸でボランティアに 走り回ったり、そのいっぽうでは「あそこのお店の何がおいしい」といった『なんとなくクリスタル』以降の自分だけのメディアを発信し続けるような行動もす る。これは、新人類世代といわれた僕らの世代のひとつの傾向といえます。

その次の世代になると、田中康夫からさらに社会派的な理念を取り去って、もっと現実的なことしか言わなくなっている。時代は「多メディア化+現実主義」になっていて、そこで何が起きるのかというのは、僕にもよく分からなくなってます。「テレビチャンピオン」のように、やたら具体的なことに詳しい普通の人が出てきたり、あるいは「なんでも鑑定団」のような値づけ情報の番組に人気が集まったりと、平和なうちはお気楽でいいけど。

少年ジャンプの『こちら葛飾区亀有公園前派出所』がいよいよ連載千回を迎えたんですけど、この2年間によく出てくる定番のテーマがインターネットなんで す。あの主役の両さんは、もともと好奇心のかたまりみたいな人ですけど、あの手の技術をどうしようもないことに使うのがすごい好きで、インターネットに限 らずオタク的なテーマは総ナメしてきたんだけど、どれも全然違和感なくはまっちゃう。昔からあの人、プロペラ機作ったりするのうまいじゃない。

山形● いや、あれは偉大なマンガで、両さんは、不動産開発からなにから、あらゆることをすでにやってきてるんですよ。だいたいどっかで酒飲んでるときとかに、新 しいネタみつけてきて、インターネットでエロゲームが流行ってると聞けば、こりゃ俺にもできるってパターンで、かなりいいモノ作って大儲けしかかるんだけ ど、楽しむだけ楽しんだら最後はダメにしてチャンチャン、と。

松原● 両さんっていう人の根本が同じだから、なにやっても無理がないんですよ。つまり、欲望が好きで、手先が器用で、肉体があるという、それだけの人なんだけど (笑)。とにかくこの1年間で、子供がいちばん読んだインターネット本っていうのが、「こちら葛飾…」のインターネット総集編の単行本。両さんは、バアさ んにもインターネット教えてたりするんだけど、これがじつに分かりやすいんですよ。

山形●日本人もみんな、あれぐらいきちんとリアリティもってられれば、ハッピーになれるんだけど。

松原●あそこまで人格的統一性がもてればねェ(笑)。ふつうああいうこと、1人の人間は全部できないですよ。


PROFILE


松原氏ポートレート
松原隆一郎(まつばら・りゅういちろう)
社会経済学者、東京大学大学院総合文化研究科助教授。
1956年兵庫県生まれ。 85年東大教養学部助教授に。貨幣を媒介とした文化・モノ・情報など市場外経済的なコミュニケーションプロセスを総合的に研究。経済にとどまらず、社会文 化的な現象まで視野は広く、新聞・雑誌等への鋭い論評寄稿も注目される。著書に『さまよえる理想主義』『豊かさの文化経済学』『格闘技としての同時代論 争』、共著に『娼婦とマフィアのペレストロイカ』『知の論理』など



山形氏ポートレート

山形浩生(やまがた・ひろお)
翻訳・評論家、シンクタンク研究員。
1964年生まれ。大手シンクタンク研究員として地域開発関連調査と評価に携わるその一方で、サイバー・カルチュア、カウンター・カルチュア系の翻訳活動 や評論、雑文書きとしても名を馳せる。WIRED誌連載コラム「山形道場」も人気。主な訳書にティモシー・リアリー『神経政治学』『フラッシュバック ス』、バロウズ『内なるネコ』『ゴースト』、H.ミラ−『モロク』、D.バ−セルミ『シティ・ライフ』、B.チュミ『建築と断絶』など。


KEYWORDS

神としてのAI
たとえば「2001年宇宙の旅」の人工知能HALのようなスーパーバイザー的知能が、 ユーザとしての人間に代わって世界の知的秩序を管理し運用するようになる世界。至近的には、推論エンジンをもったリレーショナルデータベースや、エキス パートシステムを応用した検索機構、アンサリングシステムなどが近いともいえる。 [↑]

ニコラス・ネグロポンテ
MITメディア・ラボ所長。1943年生まれ。常にここぞというときに名ゼリフを吐くので、当人の研究よりもそれらの名言や著作で広く名が売れている。 [↑]

ハイエク的世界
『DOORS』95.11月号/須藤修氏の論文から引用「かつてF.A.ハイエクは 『貨幣発行自由化論』(1976)において、貨幣の非国有化論を提唱した。政府による通貨発行の独占を廃止し、民間での自由な通貨発行を認めるべきだとい うのである。(中略)もしデジタル・キャッシュの自由発行が認められ、自由競争が行われるならば、ハイエクの提案した貨幣の非国有化論はむしろこれから現 実味を帯びるのかもしれない。実際、デジタル・キャッシュは「価値の非政治的単位」でなければならず、そのためにはまず個々の主体が国家の枠組みを超えて 新たな価値尺度を創造する権利を確立する必要がある」 [↑]

『ナニワ金融道』
「週刊モーニング」連載中。大阪一の金融屋を目指す帝国金融をめぐる非情・非道のマネーウォーズ漫画。 [↑]

ハワード・ラインゴールド
米国の科学ジャーナリスト、西海岸を代表するカウンターカルチュア系雑誌『ホールアー スレビュー』編集長、インターネットオンラインマガジン『Hot Wired』エグゼクティブ・エディター。1947年生まれ。70年代のパソコン革命を分かりやすく論説した『思考のための道具』以降、常にパソコン文化 に、フラワームーブメント的立場からカウンターパンチをくらわしてきた。93年刊行の『バーチャルコミュニティ』は、みずからの実体験にもとづくインター ネットコミュニティ草創期の事件や活動家をルポしたドキュメンタリー。 [↑]

『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』
金原克範著、洋泉社刊(1995)/著者は1964年生まれ。東北大学大学院理学研究 科動物生理学専攻博士課程在学中に本書を執筆。名前を手がかりに現代の親と若者たちのコミュニケーションを精緻に分析、それに果たしたメディアの役割を検 証したアカデミックな論文で、同書は著者の博士論文でもある。 [↑]

「テレビチャンピオン」「開運なんでも鑑定団」
いずれもテレビ東京の人気バラエティ番組。前者は主に食べ物に関する超人的な味覚や技、オタク的知識をもったシロウトや玄人が毎回王座を奪い合う。後者は、シロウトや有名人が持ち寄った、我が家の骨董品などを専門家が鑑定する。 [↑]


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