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ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約、19 章
山形浩生 (全訳はこちら)
第 V 巻 :賃金と価格
訳者の説明
この第 V 巻は、賃金と価格の理論。
- 第 19 章:賃金は、労働の需要と供給で決まる労働価格ではない面を持つ。雇用水準は有効需要で決まるから、そこで賃金を下げても雇用は増えず、完全雇用は実現されない。むしろ、賃金があまり変わらないとみんなが思ったほうが、金利調整などで完全雇用を実現しやすい。
- 第 19 章おまけ:ピグー『失業の理論』は、雇用の増減について精緻に分析はするけれど、よく見るとすべて完全雇用が前提。つまり失業のない失業の理論! 古典派では失業は扱えないのをよく示している。
- 第 20 章:有効需要から導かれる総雇用の水準が、それぞれの個別産業にどんな形で分配されるのか、というのは、数式を使って定式化できる(が、式をあまり真面目に見る必要はない)。産業ごとにかなりばらつきはある。
- 第 21 章:経済学はこれまで、価値の理論とお金の理論が断絶していた。でも実際に断絶があるのは、個別企業や事業の理論(ミクロ経済学)と経済全体としてのお金や産出の理論(マクロ経済学)だ。短期な価格は、おおむね貨幣数量説があてはまる。そして価格の長期的な安定性は、賃金の上昇率が、生産効率の上昇よりどれだけ高いかで決まってくる。
19 章 賃金の変化
Abstract
- 古典派は、賃金は、他の財とまったく同じく労働に対する価格だと考える。需要供給の交点で労働価格=賃金が決まるというわけ。でも、経済全体で見たら賃金水準が変わると需要も変わるので、そういう話ではすまない。
- 一般理論では、雇用水準は有効需要で決まるので、賃金が下がっても雇用は、直接的には増えないし、間接的にもあやしい。賃金を下げれば完全雇用が実現されるわけではない。
- それに賃金があまりに柔軟だと、賃金がもっと下がるんじゃないかと事業主が様子見に出てなおさら雇用を増やさないことだってあり得る。賃金があまり変わらないとみんなが思ったほうが、金利調整などで完全雇用を実現しやすい。
本文
Section I
- 1. 賃金変化についてもっとはやく話をしたかったところ。だって古典派は各種の調整の前提として、賃金がすぐに変わるのをあてにしているし、何か調整がうまくいかないとあれこれ外的要因を持ち出すから。
- 2. でもこちらとしても、ある程度理論を展開するまでこの話はできなかったのだ。賃金が変わると影響が複雑で、場合によっては古典価格の主張もあてはまるから。
- 3. 古典派の説明は単純明快。賃金が下がれば、それを使う製品の値段も下がる。すると需要が増え、産出が増えて、賃金が下がった分がその設備からの限界効率減少分で相殺されておしまい。
- 4. これは極端にいえば賃金が減っても需要には影響しないと想定している。総需要は、お金の量と所得速度の積だから、賃金水準なんか関係ない、というわけ。さすがにそこまで言う人は少ない。総需要は影響を受け、通常は賃金が下がれば雇用は増えるというのが一般的な理解。
- 5. ぼくはここのところで根本的にちがう意見。というよりその背後にある考え方に異論がある。
- 6. たぶん古典派の背後にある考え方は以下の通り:ある企業では、販売価格と売れる量との関係を示す需要曲線がある。そしてこの両者を関連づけると、賃金水準と雇用量との関係を示すグラフができて、そのグラフの各点での傾きが労働需要の弾性値となる。これはその産業全体に拡張しても同じで、ここの議論は名目賃金だろうと実質賃金だろうと関係ないというわけ。
- 7. これはどうみてもまちがいだ。だってある企業の需給関係は、他の企業の需給関係や総有効需要が変わらないことを前提に決まるものだからだ。だから一企業の話を産業全体に拡張することはできない。産業全体だと、賃金が変われば有効需要も変わるからだ。でもそれができないと、古典派理論は賃金水準が変わったときに総雇用がどうなるかを示せない。ピグー『失業の理論』はがんばってはいるが、古典理論の無力を示しているだけ。
Section II
- 8. こんどは「一般理論」の分析を見よう。二つの部分がある。(1) 名目賃金が下がると、直接の影響として(他の条件が同じなら)雇用は増えるか? (2) 名目賃金が下がったら、消費性向や資本の限界効率や金利に作用して、それが間接的に雇用量に影響するか?
- 9. 最初の部分への答えは、これまでの章で「ノー」というのを示してきた。雇用は、一人当たり賃金 (wage-unit) で計測した有効需要で決まるもので、有効需要は消費性向や資本の限界効率や金利が変わらないと変化しない。それでも事業家たちが全体として雇用を増やしても、必ず赤字になってしまう。
- 10. でも、賃金引き下げで雇用が実際には増えなくても、当初の段階で事業者たちがそう思ってしまうと考えたらどうだろう? 各事業者たちは利益を増やせるか? これは社会の消費性向が1に等しく、所得増と同じだけ消費が増えるなら成り立つ。あるいは、消費されない部分がすべて投資にまわれば成り立つ。そうでなければ、雇用を増やして生産量が増えても、その売り上げは増やした雇用の分には満たず、その赤字のために事業者は雇用をもとの水準に戻すしかない。
- 11. だから、賃金変化がそのまま雇用増に直結することはない。それを分析するには、賃金低下が消費性向や資本の限界効率や金利にどう影響するか見ないとダメだ。
- 12. その影響は、たぶん次の7点くらいになるだろう。
- 13. (1) 賃金を引き下げると、物価は多少下がる。すると、実質所得の一部が労働者から生産の他の要素に移る。また事業者たちから金利生活者たちにも実質所得の一部が移行する。
- 14. 労働者から他に実質所得が移転すると、消費性向は下がるだろう。事業者から金利生活者への移転のほうは、影響がはっきりしないが、たぶん金利生活者はあまり生活を変えないから、影響は悪い方になるんじゃないか(つまりその分消費が増えるとは考えにくい)。
- 15. (2) 閉鎖経済ではなく開放経済を考えると、賃金の低下は外国の賃金と比べて相対的に下がるということだ。するとこれは貿易黒字を増やすので、投資に有利に働く。イギリスはアメリカに比べて開放経済なので、賃金引き下げが雇用を増やす効果が高い。
- 16. (3) 開放経済だと、賃金低下は貿易黒字は増やすが交易条件は悪化させる。すると実質所得は下がる。ただし新規雇用者だとそうはならず、消費性向を高めるかもしれない。
- 17. (4) 賃金低下が、将来の賃金に比べていまの賃金を引き下げる、ということなら、これは資本の限界効率を高めるので、投資に有利に働く。そして消費も増やすかもしれない。でもこの賃金削減が、将来もっと賃金が下がるという予想を生み出したら、限界効率が下がって、投資も消費も先送りされる。
- 18. (5) 価格や所得金額の減少に伴う企業の総人件費 (wage bill) の低下は、所得や事業用の現金需要を減らす。だからコミュニティ全体の流動性選好を引き下げる。でもこの場合、もし賃金や物価が将来また上昇すると思われたら、短期はさておき長期ではあまり影響が起きないことになる。それに賃金引き下げをやると政治的に不満がかさみ、この不安が流動性選好を高めたら、かえって現金需要が増えてしまうかもしれない。
- 19. (6) 個々の事業者の立場からすると、賃金が下がるのはありがたいこと。だから賃金水準全体が低下する場合も、事業者はそれをありがたいと思ってしまうかもしれない。これで資本の限界効率についての悲観的な見通しが打破されて、経済が上向くかもしれない。でも労働者も同じかんちがいをしたら、そのせいで労働争議が多発して事業者側のよい影響も相殺されかねない。
- 20. (7) 物価が下がったら事業者にとって負債の負担が大きくなり、賃金低下によるありがたみは相殺される。物価下落が大きいと、負債負担がかさんで破産する事業者も増えて、投資は激減するし、事業環境への安心感も低下する。
- 21. この7つが影響のすべてではないが、主要なものはカバーできているはず。
- 22. 閉鎖経済だけを考えて、実質所得の移転の影響が社会の消費性向に与える影響がよいほうに向かわないと想定すれば、賃金水準の低下がよい影響をもたらす場合というのは (4) による資本限界効率の上昇か、(5) による金利低下しかあり得ない。
- 23. 資本限界効率の上昇のためには、賃金水準が底を打って、これからは上昇すると思われる必要がある。賃金水準がじわじわ下がり、まだ下がるんじゃないかと思われるのが最悪。有効需要が下がっているときには、賃金水準をドカッと一気に下げて、これ以上は下がるまいとだれにも思わせるのがいちばんいい。でもこれをやるなら、政府のお触れ一発でやるしかない。そんなのが自由経済でできるわけがない。ならば、ヘタにじわじわ賃金水準が下がってそれに伴い失業率が上がるよりも、賃金水準は下がらないようにするほうがましだ。
- 24. するといまの社会の実情からして、資本の限界効率に関する限り、失業に対しては柔軟な賃金水準で対応するよりは、賃金水準は固定するほうがやりやすい。
- 25. あとは金利への影響を通じて賃金水準の低下が需要を増やす、という議論しかないが、こういう議論は聞いたことがない。お金の量自体が賃金や物価水準で決まるなら、この議論は成り立ちようがない。でもお金の量が決まっているなら、賃金水準が下がれば、賃金水準で計算したお金の量はいくらでも増える。
- 26. だから理論的には、賃金水準を下げると、お金の量が増えたのと同じことになって、金利が下がる。でも、お金を増やしても投資を最適水準には持っていけないという議論がここでもあてはまる。
- 27. となると、賃金を柔軟にすれば完全雇用が実現できるという話は根拠がない。
- 28. 経済が完全雇用以下になったら、労働組合がいつでも賃下げ要求をしてくれて、お金を余らせて金利を引き下げ、完全雇用を実現してくれるとなれば、中央銀行ではなく労働組合による金融政策が実現する。
- 29. でも柔軟な賃金政策と、柔軟な金融政策とは分析のうえでまったく同じものとなるとはいえ、現実世界ではその意味合いはまったくちがう。
- 30. (i) 社会主義国じゃあるまいし、賃金をお上の命令で決めるなんてことはできない。労働者ごとに引き下げの水準も変わってくるだろう。そういうばらばらな賃金低下は、まったく不公正で正当化できないし、ものすごい抵抗にあう。一方、お金の量を変えるのは、公開市場操作でいまでも簡単にやれる。だったら簡単にやれるほうを使うのは当然だ。
- 31. (ii) 賃金水準が変わりにくいなら、物価の変動は既存設備による生産が増えるのに伴い、限界効率が下がることから生じる。そのほうが社会的に公正だ。
- 32. (iii) 一人当たり賃金 \(x\) 人分という形で計測したお金の量を増やすとき、その平均賃金のほうを引き下げると、負債の負担が大きくなる。でもお金の量を増やすなら、負債の負担は軽くなる。そのほうが事業者に優しいじゃないか。
- 33. (iv) こうした理由で、金利を引き下げるために賃金水準を引き下げるというのは、資本の限界効率を二重に低下させて、投資を先送りさせるので、景気回復はもっと遅れる。
Section III
- 34. つまり雇用がだんだん減ってきたときに、労組がだんだん賃金を引き下げさせることで対応したら、実質賃金は下がらず、むしろそれを上げてしまいかねない。すると物価はすさまじく不安定になり、社会が成り立たなくなる。また政治的にも、そんなことは全体主義国でしかできない。
- 35. オーストラリアでは、法律で実質賃金を固定している。こうすると、それに対応する雇用水準がある。そしてそれが閉鎖経済なら、その雇用水準とゼロ雇用との間で、実際の雇用は乱高下する。それを安定させるために通貨量をいじると、今度は賃金と物価水準が乱高下するはず。オーストラリアでそうならなかったのは、実質賃金固定を実施できるほどの能力が政府になかったことと、オーストラリアが閉鎖経済ではなかったことだ。
- 36. これらを考えると、閉鎖系では名目賃金の一般水準は安定に保つのがいいと思う。貿易のある開放形だと、変動為替なら同じやはり音字ことが言える。
- 36. すると物価水準も安定する。物価は、雇用量が限界原価変動に影響する範囲でしか変わらない。
- 37. それでも雇用が大きく変動したら、物価水準もそれに伴って大きく動く。でも賃金水準がふらふらする社会よりはその幅は小さい。
- 38. 賃金をあまり変わらないようにすれば、物価は雇用を一定に保てれば安定する。長期的には、賃金を一定にしつつ、技術革新などに伴って物価がだんだん下がるのと、物価を一定にして賃金がだんだん上がるのとどっちがいいか、という選択がある。この場合、後者のほうがいいいと思う。将来賃金が上がるとみんなが思った方が、完全雇用を実現しやすいし、また負債の負担もそのほうが少ないからね。でもそれは、理論的にはどっちでもいい話だ。
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YAMAGATA Hiroo日本語トップ
2011.10.10 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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