人類の限界と到達点を体現するアートと宗教。

diatxt. 16 連載: アート・カウンターパンチ #8

山形浩生



 さてこれで最後だ。最後だから、もう一つぼくの好きなアートの一つの形態について語っておこう。それはなんというか、衒学アートとでも言うべきものだ。

 たとえば……そうだな、あなたは世界最速のサイコロ、というのをご存じだろうか。ロケットやF1に使われるチタン削りだし技術を使って作った、チタン製のただのサイコロだ。が、それは「ただの」サイコロじゃない。まずそれは、すさまじい精度で分子レベルまで計算されたものであり、その表面の平らさはそこらのサイコロなんかの比じゃない。表面のひずみは投げたときに乱流を生じ、空力特性が悪くなる。それがないこのサイコロは、そういう乱流による速度低下が生じないから最速なのだ。さらにサイコロは、各面に目が刻んであるでしょう。一の面には一つ、六の面には六つ、くぼみが刻まれている。厳密に言えば、その刻み方の量がちがうと、各面が正確にはバランスしていないはずだ。このサイコロは、それを計算して各面の重量が完全にバランスされている。現代技術で考えられる限り、最も正確かつ厳密なサイコロなのだ。

 もちろん……そんなことは見てもわからない。手にとって、そんなミリグラム以下のバランスのずれを感じ取れる人間はいない(ちなみに手あかや手の脂でも微妙なバランスが崩れるので、手袋がついてくる)。この「作品」に価値をもたらしているのは、それがそうやって作られたものであるという知識だ。それを知らなければ、この作品の価値はわからない。そしてまた、その精度は実用性とはまったく関係ないところに存在している。

 あるいは、かつて知り合いがどこかに書いていた、かれの考える究極の芸術作品がある。シリコンの単結晶から削りだした、カマボコに等間隔の三枚の板をたてたような形の代物。物理学で、素粒子の干渉実験用に使う遮蔽用のついたてなのだけれど、そこで要求される精度は本当に原子レベル。単結晶の中に一つの格子欠陥があってもいけない。ついたての距離が原子一つ分ずれていてもいけない。かれは延々とその物体のスペックを並べた挙げ句、それを文鎮に使いたいと書いていた。現代技術の粋を尽くしたものが、まったく無意味な形でそこにある、という状態に惹かれるのだ、と。知らない人にとって、それは何の意味も持たない。でも知っている人にとって、それは計り知れない意味を持つ。実用的に無意味だからといって、それっぽい偽物で代用することはできない。そしてこれは、それでなくてはならないというオリジナルの重要性をはっきり要素として持ちながら、その一方でいくらでも(お金次第で)量産できるという意味では「たった一つ」の作品にはなっていない。

 人によっては、そんなものはアートとか芸術とかの範疇に入れないかもしれない。でもぼくは入れるべきだと思っている。いやむしろ、それこそがその本質を捉えたものだと思っているのだ。今回はそんな話をしつつ、これまでの議論をまとめてみよう。そしてこれからのアートとか芸術のあり方について、ちょっと述べてみよう。

 ある意味でいまのサイコロや文鎮は「孫の描いてくれた絵」といった代物や、津波がトラウマとなった子供の絵、とか、あるいはこの連載の前半で批判してきた社会問題糾弾型アートと似ていなくもない。説明がないと何の意味も持たない、という点で。でもそれは決定的にちがっている。孫の価値は、その爺さん婆さんにとってしか存在しない(そしてそれは、かれらにとってそれらが計り知れない価値を持つことを否定するものではない)。でも、このサイコロや文鎮の価値は、人類全体に及ぶ。それは人類の物質世界との関わりの目下の限界をあらわすものだからだ。そしてそれは社会問題型アートみたいに、その関わり(あるいはその限界)をへたくそに説明するものじゃない。それ自体が、その到達点であり限界となっている。そこに価値がある。

 そしてこれは、これまで芸術作品と見なされてきた多くのものに価値を与えているのと同じものだ。呪術や宗教的なオブジェ、あるいは生活用品。それらが芸術的な価値を持つことがある。それはすべて、その時代において、ある物理的制約、物質的制約に対して人間が必死で出した答そのものだ。前にブルトン批判で、魔術は当時の人間にとっては合理性を持っていた「科学」だった、という話をした。あのサイコロの表面が分子級の精度を持ち、文鎮に原子レベルの格子欠陥があってはならないのと同じ意味で、かれらの宗教的「作品」にも譲れない仕様があった。そしてそれは、その時代に人間が可能な最高レベルのものだった。そこに価値がある。どこかの美術館がかつて、LSIのパターンを拡大して展示して技術アートと言って悦にいっていたけれど、そんなひきのばしたものなんか何の意味もない。九ナノメートルの幅でエッチングされたチップそのものにこそ、LSIの本当の美があり、芸術的な価値がある。それは、ベンヤミンの言っていたアウラなんかとはまったくちがう、人間活動の一つの限界と到達点を示すものとしての価値だ。

 社会問題アート批判の裏返しとしてぼくがほめたのは、人の脳内の未知の回路を探るようなアートのあり方だった。それはいま述べているような、人間の物質世界との関わりの限界と到達点を体現したアートと裏腹の関係にある。人の物質世界との関わりは、人間の脳の情報処理に規定されるんだから。そしてこれで、ぼくが今まで書いてきたアートの一つの理想型というか理念がまとまる。それは人類全体(少なくともある程度以上の頭数を持った人間集団)にとっての各種限界や制約を体現し、願わくばそれを広げるものであらまほし。

 いまの多くのアートや芸術と称するものは、当然ながらまったく人類がいま直面している限界や到達点なんかと何ら関係ない。社会問題を扱いたがる人々は、それが人類の限界を示しているつもりなんだろうけれど、往々にして調査不足のおかげでただの自分の思いこみの限界を示すだけに終わっている(だからつまらない)。かつてのキュビズムなりダダなり表現主義なりは、技術進歩に伴ってどんどん拡大する人間の制約になんとか追いついていた。それがいまや、一部の例外をのぞいてはまったく実現できていない。  それはSF、あるいはもっと広義の小説を含め、いろいろな芸術分野一般に言えることだ。近代SFの重鎮であるジュール・ヴェルヌの考案した各種技術やその応用は、当時の科学の成果を十分にふまえ、それをさらに発展させたものだった。H・G・ウェルズは、十九世紀から二十世紀初頭を代表する一大知識人だった。スタニスワフ・レムもそうした存在であり、日本では小松左京は時代を代表する大知識人だった。かれらはその時代の人類の到達点/限界を十分知っていたし、それを超える可能性を考えていた。いまは? そんな人はまったくいない。それがSFのつまらなくなった理由の一つでもある。演劇、音楽、みんなそうだ。それを何とか回復できないものか――それが芸術なりアートなりの一つの課題だろう。いま、人類の限界を扱っているアートや芸術は本当に少ない。それをどう増やすのがいいだろう。

 それは宗教との関係じゃないか、と思うことがある。といっても、キリスト教だのイスラームだのにすり寄れってことじゃない。さっき、魔術というのはそれを本気で信じていた時代の人にとっては、一種の科学だったんだと述べた。だったらその逆で、科学を現代における魔術とか宗教と呼んでも差し支えないだろう。もちろん、世迷いごとの迷信という意味での宗教じゃない。自分たちの外にあるもの――それを神様と呼ぼうと世界の仕組みと呼ぼうと関係ない――との関わりを追求する営み、という意味で。萩尾望都が脚色したマンガ版『百億の昼と千億の夜』には、市民全員がカプセルに入って夢を見続けている、映画『マトリックス』を先取りしたような都市が出てくる。そこにたどりついたシッダルタが、ここの神はと尋ねると、そこを管理するコンピュータが出てくる。バカにするシッダルタに向かい、そいつは言う。神の形は時代と相手次第でどうにでも変わる。人間みたいな形のこともあれば、経済システムのこともあるし、ここのようにコンピュータであることもあるんだ、と。そうすると、かつて芸術が宗教に奉仕することが多かったように、現代の芸術やアートも、もう少し宗教的な立場を意識的に取るべきじゃないか。現代の人と物質界/世界との関わりの限界を体現するにはどうしたらいいか、それを考える――という以前にそもそもその限界や今の神のあり方というものが何なのかくらい勉強する手間を惜しんじゃいけないだろう。超ひも理論や量子重力理論と張り合い、脳科学や情報理論と歩みを共にし、行動経済学や合理的期待形成論を体現するような芸術やアートを作らなきゃいけないんじゃないか。

 ……こう書いて、そんなの明らかに無理だし、いまのあまり頭のよくないアーティストたちにそれを要求するのは酷だなあ、という気もするのだ。そして、神が、宗教が変わるのなら、それを奉仕し体現する芸術も変わるんじゃないか? 自分たちの活動が、人類の世界のあり方を体現し、その限界そのものを作っているという確信を持った分野が、実はすでにできている。ソフトウェアだ。ポール・グレアムは『ハッカーと画家』(オーム社)で、自分たちの書いているソフトウェアが、いつの日かミケランジェロたちの作品と比肩するものとして評価されるようになることを確信している。ここにこそ実は新しい芸術やアートがあるんじゃないか――なんてことを最近考えているのだが、もはやそれを論じる余地はないようだ。ではまたいずれ。



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