創造性と自由のゆくえ

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #7
diatxt. number 15 (京都デザインセンター, 2005/6) pp. 152-155
山形浩生



 学問の世界だと、自分が他人の業績の上に何かを築いているという感覚はまちがいようがない。論文を書くときにも、既往研究はちゃんと調べて自分の研究がそこに何を追加するのかは明記するし、またその際の参照・引用文献などの扱いははっきり決まっている。またそうした手続き面を待つまでもなく、以前のこういう発見なり考え方がなければ自分のこの研究や成果はあり得なかった、というのがわかる。ニュートンは、自分が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗ったからなのだ、と言っている。もちろん巨人というのは先人たちのことだ。

 一方、アートの世界だとこれがどうなのか、ぼくはちょっとわからない。たとえば宮島達男は、自分の作品が何かの影響の下にあるとか、何かを土台にしてできているという感覚は持っているんだろうか。インタビューなどでかれは、だれに影響を受けたか、というようなことはしょっちゅうしゃべっている。ちょっと古いけれど、一九九八年のトウキョウトラッシュのインタビューではジオットー、長谷川等伯、マーク・ロスコ、河原温、榎倉康二の名前が挙がっている。なるほどね、というのもあれば、意外な名前もあるけれど、それはどうでもいい。でも影響を受けたというのは、たとえば河原温の日付作品を発展させてLEDに置き換えたものが自分の作品である、といった認識はあるんだろうか。たぶんないだろう。ここでの影響というのは、見て「わあすごいと思いました」とか、アイデアや表現の面で似たような方向性を追求しようと思った、というくらいの感じだろう。宮島の作品だと「自分の作品は日亜化学(そしてあるいは中村修二)の青色ダイオードの成果をもとにしている」という印象はあるんだろうか。あんまりないように思う。よい材料が手に入った、というのはあるだろうけれど。

 なんでこんな話をしているかというと、ちょっと創作における影響というものについてここ数年あれこれ考えているからだ。

 たぶんご存じの方も多いだろうけれど、コンピュータやインターネットの世界では、創作活動におけるコモンズの役割という話がしきりに言われるようになってきた。創作活動においては、著作権がきちんと整備されていると、それを使っていろいろお金儲けができるので、クリエーターやアーティストたちは「よし頑張って作るぞ」というインセンティブができる、という理屈がある。でもその一方で、あらゆる創作活動は過去にあったものをベースに、加工組み合わせて作るものだという認識もある。だからその材料となるものが簡単に入手できないと、あるいは入手できても使用に制限がありすぎると、これは各種創作活動を制約してしまう。河原温が、数字だけを並べるというアート表現は全部オレのもんだ、と言って宮島達男の LED 作品を訴えたりロイヤルティの支払いを要求したりできちゃったら、たぶん宮島達男はいまの作品群を作れなかっただろう。著作権を強化するばかりだと、著作権が及ばないからこそ各種創造活動に貢献できるもの、いろんな人が材料として使えるものがなくなり、創造活動は衰退しかねない。だれでも何の許可も得ずに好き勝手に使ってかまわないという材料――かつてのだれでも使っていい放牧地や入会地のようなコモンズ――がたくさんあったほうが、創造活動は刺激されるはずだ。

 この考え方を強力に推進しているのが、現スタンフォード大学のローレンス・レッシグ教授で、詳しくはかれの著書を読んでもらえばいい(拙訳で翔泳社から出てます)。そのためにかれが推進しているのが、クリエイティブ・コモンズだ。なんでもかんでも保護するようなすごい著作権が常に必要なわけはない。商業的に使わなければどう使ってもいいよ、とか出所さえ明確にすれば商業製品に使ってもかまわないよ、とか、好きに使っていいけれど、その結果としてできたものはこれと同じ条件で公開しなきゃだめだよ、とか少し弱い著作権で十分、という作品はたくさんある。いや、いまあげたフリーソフトウェアみたいに、弱い著作権でなきゃダメなんだ、というもっと積極的なとらえ方もある。それを実現できるようなライセンスを作ろう、というわけだ。

 さて……この発想は実に納得のいくものだし、ぼくも自分の書いたいろんなものを、このライセンスを使って公開している。名前さえ出せば好き勝手に使っていいよ、という条件で、これまで書いた多くのものをそのままネットにあげている。『不思議の国のアリス』の翻訳とか。そしてそれが、それなりに自由に活用されることで各種文化活動や知的活動を活性化していることもわかる。テキスト自体はあちこちにコピーされているし、そこに自分なりのイラストをつけた人もいれば、自動翻訳の解析用に使う人も射れば、携帯電話で読めるように加工した人もいれば、そのまま本にして出版してしまった出版社もある。そして、これが他の表現にも適用できるのはまちがいない。サンプリングやリミックス音楽、あるいはコラージュなんかは、もとになるオリジナルがある――そしてそれを権利や許可など心配せずに自由に使えるのは創作上とてもよいことだ。アンディ・ウォーホールは、キャンベルやマリリン・モンローに訴えられかねないし、中村政人の某ハンバーガーチェーンのロゴを使った作品は、結構ヤバイ橋を渡っているような渡っていないような。そういうヤバさがなかったら、たぶんみんなもっと自由にあれこれ作れるようになるだろう。もっとも逆にそういう作品は、そのヤバさがキモになっているのだ、という議論もあるだろうけれど。でもそれはまあ一部の限られた例として、インターネット上で、古い文化的な成果がどんどん自由に出回るようになったら(そしてそれが自由に使えるようになったら)新しい作品の創造は爆発的に増大するだろう(ちょうどウェブページやブログが急激に増大したように)、というのは、議論としてはわかる。

 その一方で、特にネット上でそうした自由の増大が本当に創造性増大に資するのか、というのが、ぼくが最近ちょっと疑問に思っていることだ。多くの創造活動というのは、できの悪い模倣としてはじまったりする。よいものがそのまま利用できるなら、そこで新しいものを作るというインセンティブは働かない。レヴィ=ストロースも、アマゾンのジャングル部族に伝わる仮面を研究した『仮面の道』で、それらの多様性が一方では模倣(つまりはコモンズの活用)から生まれてきたことを指摘し、単一のオリジナリティある天才がゼロから作品を作り出すという発想を批判する一方で、すべてがそのまま使えるような形で提供されているコモンズの有効性をかれは否定する。『はるかなる視線 1』(みすず書房)収録の「人種と文化」でかれは断言する。創造性というのは、概略が漠然と伝わる程度のコミュニケーション環境下で最も効率よく開花するのだ、と。うろおぼえで、「なんかこんな感じのもの」というのをみんな真似して作ろうとした結果こそが地域の部族間に生じたお面の(そしてその他文化アイテムの)細かい差異を生み出し、文化の多様性を作り出した。だれもが一流の作品を好きなときに見られるなら、わざわざ二流の作品を自分で作ってみようとする人は減るだろう。いや、作りたがるやつは減らなくても、それを鑑賞しよう(特に金払ってまで)という人は減るだろう。同じ金出すんなら、弟のバンドが演奏するストーンズの下手なコピーをきくよりも、ストーンズの CD そのものを買ったほうがいいじゃないか。

 そして確かに、冒頭で引いた宮島達男とその「影響」との関係というのはそういうものだ。アートとかにある独創性は、根底にある考え方が似ていても、表現が同じにはなりようにないところからきているといっていい。さて、今後インターネットの発達がそうした条件を削除してしまった場合に、いったいアートその他はどういう方向に進むんだろうか。レヴィ=ストロースは述べている。「他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者の、そして自分の創造の独創性を殺す」。クリエイティブコモンズが理想としているのは(特にインターネット上では)まさにこの完璧なコミュニケーションへの指向だったりするのだけれど……

 そしてこの議論をレヴィ=ストロースはさらに発展させて、ショッキングな議論を展開する。かれは語る。創造性は、差別と不平等と排外主義の中から生まれるものだ、と。多くの「文化」擁護者は、世界的な文化の交流が相互理解と平等を実現するものだと考えている。そしてそれがこんどはさらに文化の多様性を作り出すのだ、と楽観的に考えている。しかしそうではないかもしれない。平等や相互理解が推進され、多様性マンセー的な思想が広まれば広まるほど、文化は枯渇し、創造行為は減ってしまうのかもしれない。

 実はこのレヴィ=ストロースの文章は、ユネスコの刊行物で発表されることになっていたものだった。ユネスコはもちろん、相互理解と平等と多様性をひたすら称揚する機関だ。そこでその理念にまったく反する文が出てきたので、関係者は頭を抱えたそうな。もちろん、これだけなら笑い話ですむ。でも、この議論はインターネットや通信の発達に伴うアートの未来にも大きく関わるものだし(もはやアートが力をあまり持てていないのは、実は下手な文化交流やら相互理解やらの試みのせいなのかもしれない)、そしてある種の政治的なお題目にアートを使おうという、ありがちな試みにも一石を投じるものだと思うのだ。



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