アートのもう一つの可能性

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #5
diatxt. number 13 (京都デザインセンター, 2004/9) pp. 140-143
山形浩生



  さっき、ピナ・バウシュ舞踊団の『バンドネオン』を見てきて、ぼくは考え込んでしまったのだった。はっきり言って、退屈だったのだ。観客席の女の子たちは妙に美人ばかりで(その分、野郎どもの腐り加減はひどいものだったけど)それはよかったんだが、舞台で起こっていることを見て、今これを見るべき積極的な理由というのがぼくには思い至らなかった。うん、能書きはいろいろタレることができる。あれこれ起こる背後で、それとまったく関係なく人々が通り過ぎ、片づけが粛々と進む。それはまさに、世界全体との関わりを失い、社会から孤立した現代人の孤独を表しているのである、等々。愛されたいという欲望。

 で、とぼくは思うわけだ。それがどうしたの、と。それを言われて、ぼくたちはどうすればいいの、と。

ぼくはこれまでの連載で、アートとか芸術とか、そういうものが持つ現代的な価値とはどういうものか、という話をしてきた。ぼくが挙げたのは、それがぼくたちの脳内にある、普通は使われない部分を刺激する、という点だった。アートや芸術は、ぼくたち自身について自分でも知らなかったことを教えてくれる。それは科学の実験みたいなものだ。脳の中に、こんな変な形に反応する何かがある――それがわかってくるのは、とてもわくわくするものだ。

 でもそれがあるなら、脳の外の話も多少はできるんだろう。ぼくはアートでなにやら社会問題を表現する、という話には非常に懐疑的だ。でも、アートや芸術作品の魅力の一つが、それが何か自分の状態――それは社会との関係も含む――をうまく表現してくれることにある、というのは否定できない。それは必ずしも特定の社会問題とは直結していない。ただ、ある社会環境の中におかれた自分の状態とは結びついている。ムンク『叫び』に人気があるのは(これを等号で結んでいいかどうかは議論のわかれるところだけれど、この場合その人気は同時にそれが持つ芸術的価値とも同じものだ)、それが何か特定の社会問題と結びついているからじゃない。いろんな状況で出てくる、自分の状態や自分の気分が表現されているからだ。その契機がなんであるかというのは、人によってぜんぜんちがうし、ムンクが考えていたのが何かということさえ実はどうでもいい。ただそれを見た人が、何か自分自身のある状態とそれが通じ合っていると感じることで、そこに価値が生まれる。それは同時に、「ああ自分だけじゃない」という、かすかな他人との結びつきの感覚をも生み出すんだろう。

 『バンドネオン』だって、そういうものだとは言える。でも……ぼくたちはもう、自分たちが孤独だとか疎外されているとか言われることに慣れてしまった。あまりに慣れすぎているので、それを改めて繰り返し言われるても特にありがたみはなくて、そう言うのが何かもう現代では挨拶がわりになってしまっているような感さえある。さらに、その表現の仕方にもあまりに慣れてしまった。個人的なことを訴え続ける人物の声が、だれにも聞き届けられず無視され続ける――そういう演出の踊りや芝居を、ぼくたちは何度見たことか。二組以上の人々が、一見関係ありそうな何かを反復的に演じるが、それがやがてずれ、相互に何も関係を持たなくなり、全体としての秩序と見えたものがやがて崩れ去る。そしてそれでも、何か人々はつながりや関係を求め続ける――そんな演出を、ぼくはもういやというほど見た。『バンドネオン』初演の一九八〇年(だっけな)だと状況はちがったのかもしれない(そんな極端にちがったはずはない、とは思うけれど)。そしてもちろん、ぼくがピナ・バウシュの繊細な演出や振り付けの妙を理解できていないこともあるんだろう。でも、それもまた欠点になる。ぼくの孤独、ぼくの疎外、ぼくの無力感――それはなにやら芸術的な処理をして作品として鑑賞したいものじゃないのだ。それはすでにそこにある。ぼくは寂しいというのを詩的に言い換えたところで、その寂しさはなくならない。詩的に言い換えるだけの余裕がある人は、ぼくほどの切実さはないんだ――そう感じられる分だけ、たぶんぼくの寂しさや孤独は深くなる。自分より浅い悩みを見せられても、ぼくは特にどうとは思わない。いい気なもんだ、と思うだけだ。ぼくが『バンドネオン』を見て感じたのは、それだった。その程度のもので、何を大騒ぎしてるんだろう。そういうことだった。

 ひょっとしたら、踊りの世界においては、あれは新鮮だったのかもしれない。でも、人は現代舞踊のみにて生きるに非ず。グランジやオルタナティブ系のロックは、「おれはだめだ」「役たたずだ」「無能だ」「だれもおれなんか必要としてない」「だれもわかってくれない」「おれは孤独だ」「死にたい」というテーマをしつこいくらい繰り返してきた。そしてそれが受け入れられている理由は、それが洗練されていないから、でもある。それがただの叫びに近いから、でもある。だからこそ人はそこに、自分と同じくらい、あるいは自分以上に余裕のない人を見て、共感と、そしてある種のスケープゴートを見いだす。

 そしてそこに人々は、自分と世界との関係の、何かもっと純粋な形を見いだしているわけだ。それを見せてくれることに、こうした音楽の価値はある。ピナ・バウシュたちの『バンドネオン』だってそれを目指しているはずではあるんだけれど。そして一部の人には、それが機能するんだろうけれど。

 ついでながらもう一つ。ことばの問題もあったのかもしれない。今回の上演では、台詞はほとんど日本語化されていた。それを踊り手たちが、無理にしゃべることの不自然さは、たぶん舞台全体のわざとらしさや非切実感をかなり高めていたと思う。そしてそれは、観客との関係にも不幸な影響を及ぼしていた。ガイジンが日本語をしゃべるのは――いやそれを言うなら、人が母語以外のどんな言語をしゃべるのも――こっけいなことだ、と蓮實重彦も書いている。舞台の上で、踊り手たちが片言の日本語を何か言うたびに、客席からは半分義務的な笑いが起きる。特に笑うような内容ではない部分でさえ。そしてそのたびに、何か客席と舞台の上とで、妙な共犯意識じみたやりとりがかわされているのが感じられる。ぼくはそれが、全体の演出をひどく安っぽいものにしていたような気がする。

 だが、ちょっと話がそれた。アートや芸術というものの今ひとつの機能が、自分と世界の関係――それも今まで知らなかった、あるいは直面していなかった関係――を新しい形で見せつけてくれるところにあるのだとすれば、それをまさに文字通りに行った作品を、ぼくはつい最近見る光栄に浴したのだった。三上晴子+市川創太「グラヴィセルズ:重力と抵抗」。ぼくはこれを見に、わざわざ山口まで出かけていったのである。

 三上晴子の最近の作品は、ヒューマン・マシン・インターフェース(HMI) のプロトタイプみたいなのばかりだけれど、これもそうだ。これは縦横10メートルほどのスペースに、圧力センサが仕込んであって、人が上に載ると、その人物に働いている重力場が表示される。さらには、人工衛星やその他各種の物理条件が、自分のまわりの等高線で表現された場に影響を与える。ぼくたちは存在しているだけで、実は大きく世界を変えている。そして同時に、目に見えない力に、気がつかないうちにあれこれ影響を受けている。この場の中に複数の人が入ると、両者の作る場が関係しあっている様子がわかる。人と人との物理的な関係が、多少なりともわかる(ただしこれは、表示が複雑になりすぎてごちゃごちゃになり、あまりはっきり出ないのが残念ではある)。

 自分の作る重力場(擬似的なものではあるけれど)をここまで実感させてくれる展示、というのはぼくは初めてだった。蛇足ながら、三上晴子の作品の常として騙せる(ある一定のリズムで床を踏んでやると、定在波が発生して、何もないところに何かがあるかのような反応を起こせる)のも個人的には楽しかった。

 アートや芸術というものの、もう一つの可能性がここにはあるだろう。脳の中の各種回路をテストできるのと同じように、自分が世界に対して持っている関係を見せてくれるもの。もちろん、三上・市川の『グラヴィセルズ』はその一例でしかないし、この段階ではムンク『叫び』やナイン・インチ・ネールズを聴いて人々が感じるような強い感情を引き出すのは難しいだろう。それでも、それは人がいままで具体的に考えたことのない世界との関係を描き出してくれる。そしてもっと別の要素を探るうちに、人々のツボをうまく突くような要素が見つからないとも限らない。エリアーデは、現代人はかつて星や太陽と持っていた神話的な関係を失っており、それを今なお回復したいと思っているのだ、そしてそのあらわれが星占いなのだ、と指摘した。それならば……人々と星の世界の結びつきを回復するアートとは? 神話的な世界とのつながりをもう一度あらわにしてくれる、そんなアートとはどんなものだろうか? 人々が安易なエコロジーにはまりたがるのも、ありもしなかった自然との結びつきをねつ造しようという試みだ。それを変なシンボルや比喩だけで見せるのではなく、何かもっと具体的な形で見せる試み、というのがアートや芸術の方向性としてあるんじゃないか。それはひょっとすると、何かインタラクティブな祭壇のようなものになるのかもしれない。人の動き、呼びかけに応えて、世界が応答する――それはずっとあった応答なんだけれど、それが初めて目に見えるようになる――そういうアートの可能性があり得るんじゃないか。  



diatxt. 連載インデックス  YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)