美術というものの本質について

diatxt. 連載: アート・カウンターパンチ #1
diatxt. number 09 (京都デザインセンター, 2003/04) pp. 156-159
山形浩生



 もう一年半もまえになるのか。仕事でオーストラリアにでかけたとき、ちょうど友人のパトリシア・ピッチニーニの個展オープニングがあったので、そっちにも顔を出してきたのだった。

 その個展自体は、とってもおもしろいものだった。彼女が昔から作っている、カーナゲットのシリーズの展覧会だ。車を見て、こう、早そうだな、という感じがするものがあるでしょう。あの独特のクローム塗装とか。必要以上の流線型フォルムとか。ボンネットの筋とか。彼女はそういう形や特色を、こんなゴロッとした丸いフォルムに凝縮していた。チキンナゲットが、チキンのいわば食べ物としての「本質」だけをとってきて固めたように、カーナゲットは車の「速さ」の印象だけをとってきて固めようとする。もちろん、樹脂をかためて塗装しただけで、実際に動力があるわけじゃないから、動くわけじゃない。タイヤすらないもの。だから動かないのはみんな知っている。だけど、これには早そうな印象がある。

 そして、展覧会での人々の反応を見ているのは、それはそれはおもしろいものだった。みんな、スポーツカーを目の前にすると、「おお」とか言ってついさわりたくなるでしょう。なんとなくフェンダーを撫でてみたくなるでしょう。それと同じで、この個展にきた人も、みんな(ホントはいけないんだけれど)さりげないふりをしてそうっと触っている。実にうれしそうに。

 ぼくはそこにこそ、美術というものの本質があるんだと思っている。今後連載の中では、そういうことについてちょっと書いてみたいと思っているのだ。

 というわけで、その展覧会は楽しかったんだけれど、でもそこでぼくが引っかかったことがあった。ある美術評論家が、この個展についてのスピーチをそこで行って、それがぼくにはまったくピンとこなかったのだった。今回は(のっけから何だが)そういう脇道の話だ。

 かれのスピーチの半分くらいは、なんとかイズムがどうしたこうした、というぼくにはまったく関心のないものではあった。でも、パトリシア・ピッチニーニの作品の中に一つ、男の子のポートレートが描いてあるものがあった。その人は、なんだっけ、レーサーかなんかで、エイズで死んだのかな、えん罪かなんかになったのかな? なんかそういう、オーストラリアの社会問題と関係あるような、そんな人だった。この評論家の後半の話は、この作品を見ることでいかにそうした理不尽な暴力性が如実に浮き彫りになり、そしてそこから、環境破壊の恐ろしさやグローバリゼーションの暴力についての認識がいかに高まるか、というような話が展開されていたのだ。ぼくがひっかかったのは、そこのところだ。

 まずこれがひっかかった理由の一つは……ぼくはパトリシア・ピッチニーニの作品を見て、グローバリゼーションがどうしたこうした、なんて話はつゆほども頭に浮かばなかったからだ。そもそもこいつの話はピントはずれもいいとこじゃないのか? そしてもう一つ、かれがここで「グローバリズムの暴力」なるものを(さしたる関係もないのに)持ち出したことで、ぼくはなおさらカチンときたのだった。

 ぼくはグローバリゼーション批判をうれしそうに口走るやつが嫌いだ。そういうグローバリゼーションが嫌いというのは、つまりぼくに向かって、おまえなんか生まれてこなきゃよかったと言っているに等しいからだ。日本のいまの繁栄は、グローバリゼーションなしにはあり得なかったんだよ。もしグローバリゼーションがなければ、うちの父は和歌山の祖父の畑でももらって、今とは比べてモノにならない貧乏生活を送っていただろう。ぼくのタイや香港の友人たちだって、グローバリゼーションなくしては会うこともなかっただろう。日本で反グローバリズムとか寝言を言っているばかな連中自身、グローバリゼーションを通じた日本の繁栄があってこそ初めてそういうきいたふうな口もきけるのだ。

 そしてそういう間接的なものだけでなく、グローバリゼーションの恩恵を一番受けているのは、当の反グローバリズム論者だったりする。この評論家も、数日前はスウェーデンにいて、来週にはイギリスに行ってどうのこうの、とうれしそうに述べていた。グローバリゼーションなしに、それができると思うのかね。国際航空路線、キャッシュディスペンサーやクレジットカード、インターネット――それなしには、反グローバリズム活動すらあり得ない。反グローバリズム活動は、批判する当のグローバリゼーションに寄生する存在でしかない。

 もちろん、グローバリゼーションのやり方にはいろいろあって、ここはもうちょっと他にやりようがあるんじゃないかとか、この企業のこのやり方はあんまりだ、とかいうのはある。それはスティグリッツなんかが指摘している通り。でも、それはグローバリズムそのものを批判することにはならないのだ。

 そしてさらに、反グローバリズムを唱える人々の多くは、実はグローバリズムが本当にいけないかどうかについて、まともに考えていない。データの一つも自分でろくに調べていない。ベネトンの広告あたりを見て、なんかそれらしい雰囲気に浸っているだけなのだ。かれらの多くは、本気でグローバリゼーションを心配しているわけじゃない。同じように、はやりのエコロジーだの環境問題だのをテーマにしている人々が、本当にそれについてきちんと考えているとは思えない。それどころか、それについてのデータ一つまともに調べたとは思わない。どっかで焼き畑農業をしているところを見て顔をしかめてみたり。重油まみれの鳥をその場限りで心配してみたり。その程度の認識からくる「表現」に、何の意味があるのかね。

 そしてこの評論家が最終的に述べていたのは、パトリシア・ピッチニーニの作品がえらいのは、それがある種の社会問題に対する認識を高めてくれるから価値があるのだ、ということだ。  すでに述べたとおり、ぼく自身はそんな認識はいっさい高まらなかったので、そこで根拠付けされても困惑するだけだ。そしてここからわかることは、要するにすでにその問題について知っている人でなければ、そこで主張されている「問題」についての認識なんか高まりようがない、ということ。その男の子のポートレートが、どういう背景を持っているのか知っている人以外には、そんな社会問題の指摘が行われていることさえわからない。

 要するに、もともとその問題について認識を持っている人だけが、この作品を通じてその問題への認識を得ることができるわけだ。

 それってなんか意味があるの? もともと知っていたことをなぞってもらうことが?

 この手の議論は、結構ある。文学とか、美術の価値、というやつだ。フランスの文学者がどこかでこう言った:飢えた子供の前で文学に何ができるか、と。それに対して、その飢えた子供を事件化するのが文学の仕事だ、と言った別の文学屋さんがいた。

 でもぼくは昔からこの議論がさっぱりわからなかった。飢えた子供の前で文学が何かしなきゃいけない? なぜ? 飢えた子供の前で、電球に何ができるだろう。飢えた子供の前で、携帯電話に何ができるだろう。コレラの予防注射に何ができるだろう。何もできない。だからといって、電球や携帯電話やコレラの予防注射が無意味だということにはならない。あらゆるものが、あらゆる人に、あらゆる場面で役に立たなきゃいけないなんてことはない。それぞれのモノは、別のところで別の人々のために何かをしてくれる。そしてそれをうまくやれば、まわりまわってその子供が長期的に飢えないようにもできるかもしれない。

 たぶん、「飢えた子供の前で」と言った人は、別に文字通り飢えた子供の話がしたかったわけじゃないんだろう。その人はたぶん、社会的優先度の高い問題の前で、ということが言いたかったんだと思う。文学ってのは、社会的な重要性の低いところでしか活動できていないぞ、ということだ。でも、それでも話は同じだ。ぼくだって、あなただって、たぶんやってることはそんなに社会的に重要じゃない。みんなそれぞれにつまらない仕事をやることで、社会全体として何かいい方に持っていこう――重要なのはそういうことだ。

 そして、もしある作品の価値が、何らかの社会問題に対する認識を高めることにあるなら、その社会問題が片づいたときにその価値はなくなるんだろうか。

 ベン・シャーンが第五福竜丸事件を機に、ラッキー・ドラゴンのシリーズを作ったとき、それは水爆実験についての認識を高めただろう。でも、いまあの事件がもう風化しているなら、それはもう価値がないだろうか。あるいはウィリアム・バロウズが『裸のランチ』で露骨に男の同性愛シーンをいくつか描いて、一部の人にとってはそれを読んでカミングアウトする勇気がでた、ということが『裸のランチ』の価値だったという。でもいまは? 一部の国では、ゲイであることが昔ほどのスティグマでなくなってきているいま、『裸のランチ』の価値はなくなるんだろうか? 一部の作品はそうだ。レーチェル・カーソン『沈黙の春』とか有吉佐和子『複合汚染』とかは、すでにもう無価値だ。さらに、社会問題はどんどんむずかしくなっている。環境問題やグローバリゼーションをどう考えるか――これは実にむずかしい。そのとき、アーティストとしてはきちんとこの問題についてすべて勉強し、判断を加えたうえでそれを反映させた作品を作るか? それができればいいだろう。でも、不可能でしょ。そして現実にみんながそれをやっているとも思えない。

 すると、そういうところでの勝負は無謀じゃないか、ということだ。別のところにある、社会問題から離れた価値ってものをきちんと考える必要があるんじゃないか、ということだ。



diatxt. 連載インデックス  YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)