CYZO 2008/07号。表紙は吉高由里子 山形道場 ?? 回

今月の思案! チェルノブイリの特異な恐怖

(『CYZO』2008 年 7 月)

山形浩生

要約: チェルノブイリの写真集から漂う恐怖は、放射能だらけの危険なところに自然が平気な顔で入り込み、見ただけでは決して危険とはわからないことからくる。それは頭だけでしか理解できない恐怖なのだ。



 最近、中筋純『廃墟チェルノブイリ』という写真集を見た。あの原発事故で、発電所そのものはむろん、その城下町も含む半径三〇キロ以内はいまや厳しい立ち入り規制がかかっている。二十二年前に慌ててゴーストタウンと化したその一帯を、写真集はひたすら撮影する。無人のアパート、放棄された戦車や車や船、散在する社会主義アイコン。学校の書き取り帳。そびえたつ煙突、遺された巨大な発電タービン。人々が突然追い立てられて、荷造りさえする間もなくすべてを残して立ち去った、ほぼそのままの姿が現在もなお残されている。

 それはとても不気味で恐ろしい光景であるのはまちがいない。アマゾンなどの感想文を見ると(そして著者のコメントを見ても)、この写真で原子力の恐ろしさを感じた、といった感想を抱く人は多い。そして、このチェルノブイリ周辺の光景には確かに恐ろしさがある。あるのだが……

 実は写真を見ただけでは、その恐ろしさはわからない。わかりようがないのだ。その恐怖は直感や肉体では決してわからないものだからだ。

 それが証拠に、自然は何も変わっていない。リンゴの木は相変わらず実をつけ、ハトは街灯に並び、木々は生い茂る。寒いからあたり一面を植物が鬱そうと覆い尽くすようなこともなく、街路樹はそのまま残り、撮影された季節にともなって葉を黄色くしている。ごくふつうの、何の変哲もない自然がそのままそこにある。

 自然には、ここにある恐怖はわからない。つまりはぼくたちの自然に属する部分、つまり直感や本能的なものでは知りようがない。放射能というものがあって、それは恐ろしいものなんだという知識があるからこそ、その光景は怖く見えるのだ。

 つい先日まで人がいたような気配はあるのに、実はだれもいない——それは確かに不自然だ。でもそれだけでは、中筋がこれまで撮ってきた温泉やラブホテルの廃墟と何らかわらない。でもそこにはチェルノブイリの写真のような怖さはない。その怖さは、それが怖く見えないところにある。怖いとわかっているのに、怖そうに見えない、それがさらに怖さを強調する——この写真にはそういう構造があった。

 そしてそれは、ぼくたちの文明がもはや本能とか自然とかの域をよくも悪しくも超えてしまったことを如実に示す。ぼくたちはもう多くの点で、直感的な恐怖や本能的な恐怖には頼れなくなっている(だがそれは、頼らなくてよくなっている、とも言える)。いま多くの人たちが騒ぎ、恐れて見せるもの——放射能でもそうだし、遺伝子組み換えでも電磁波でも農薬でも狂牛病でも、おそらくは地球温暖化でも——は、すべて知的に理解した上でしか恐ろしいとはわからないし、その恐ろしさもあくまで確率的なものだ。多くの人はそれが直感的に怖いつもりでいるけれど、実はちがう。そこには直感に訴えるものが何もないからこそ、人々は逆にどう反応をしていいかわからない。知的な理解を経て怖い/怖くないというのを判断しなくてはならないのに、そのやり方がわからない。だからこそ、一部の人々はかえって大騒ぎして見せて、とにかく何が何でもダメ、という過剰な反応をするしかなくなっている。

 チェルノブイリの写真はそんな状況の見本でもある。突然変異のモンスターでも出てきてくれれば、まだ理解しやすい恐怖がそこには生まれただろう。でもそこにあるのは、普通の秋の光景だ。その光景と、頭で理解している恐怖とをどう関連づけるか——たぶんそれは、安全と安心のちがい、何て話ともからんでくるのだろう。いまはちょうど、中国やミャンマーのわかりやすい災害の恐怖がニュースを席巻しているけれど、また近々どこかで、この知的にしかわからない怖さが課題となる状況が生まれるはず。

近況:ガーナのニュースはここ数週間、中国とミャンマーの災害話、そして日本ではあまり報道されてないらしい、南アフリカの外国人排斥暴動ばかりです。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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