CYZO 2007/11号。表紙は浦浜アリサ --> 山形道場 第 103 段

今月の喝! 食い物の偽装だの期限切れだのの大騒ぎ。

(『CYZO』2007 年 11 月)

山形浩生

要約: 賞味期限だの産地だのの偽装で騒ぐやつらはバカだねえ。だれも病気になってないし、産地はだれも気がつかなかったんでしょ。だったらこの程度の消費者にはその程度のもので十分。そしてそれは、自分で食い物をきちんと検討できない自堕落さを告白するものでもある。



 ぼくが途上国で日々得たいの知れないものを喰いまくっているせいなのかもしれないけれど、最近のやれ偽装だやれ期限切れだという話には失笑を禁じ得ない。いいじゃん、そんなもの。多少期限切れだった? それがどうした。食い物なんて、ある日を境にデジタルにいい/悪いが切り替わるわけじゃない。どっかで画一的に決めた「期限日」なんてものを盲信して揚げ足とるほうがバカだ。期限を多少すぎたところで、食えなくなったり死んだりするわけじゃない。多少風味が落ちるくらい。そしてそれは食う人が自分の舌で判断できることでしょうに。できないの?

 なぜ食えなくなったり死んだりしないとわかるかって? 食い物屋としては、決してそこまで落ちるわけにはいかないからだ。品質の無限下降とまではいかない。そこには何らかの自主的な歯止めはかかる。ついでながら味が落ちれば、人はそれなりに離れる。前に同僚と話していたことだけれど、レストランで料理を頼んだときは、口や頭ではその料理の善し悪しを言語化・意識化はできないかもしれない。でも舌や手は結構正直で、おいしくないものは何となくだれも手をつけずに皿に残る。品質を落とすにも自ずと限界はあるのだ。その品質が許容範囲かどうかを期限日なんかに頼らなければわからない人は、そもそもそんなことで騒ぐ権利があるほどの舌を持ってないということだ。

 こういうのをあげつらって「食への信頼が揺らいだ」なんてことを言う人や新聞は多い。でもそんなことはない。長期的な信頼は、基本は値段と味その他のバランスから生じる。別にそれが昔は期限切れの材料を使っていなかったかどうか、確認のしようがない。でも昔はそれでだれも文句を言わなかった。というよりも、その材料が使えるかどうかという(期限日なんかとは関係ない)その作り手の判断まで含めて、そこの食い物に対する評価や信頼を構築していたはずなのだ。実際に自炊している人、食い物を作る現場に携わったことがある人は、どこも結構すさまじいことをやっているのを知っているもの。

 ぼくは各種の期限切れ使用や使い回しで「信頼が揺らいだ」とかいう物言いは、「信頼」とか「信用」をいうものについて何かかんちがいをしていると思う。そういう人々は、信用というのが何か勝手に宙に浮いて存在するものであるかのような幻想を持っている。でも、信用というのは基本的には売り手と買い手の両方が構築するものだ。品質というのは客観的なものではなく、最終的には受け手の判断なのだ。最終的には自分の舌で判断しろ。自分の頭で判断しろ。それだけの話だ。多くの人は、それで特に不満もなく赤福のおかしを買い、どこぞのお弁当を買って満足していた。ラベルになんと書いてあろうと。

 期限切れ材料を使ったといって騒ぐ人々は、それを怠っていた人だとぼくは思う。本来なら、自分の経験と努力を通じて構築すべき他者に対する信用を、期限日とか公的な基準とか、他人任せにしていただけだ。もちろん、ゼロから出発しろとはいわない。最初は他人の作った基準を参考にすることもある。でもそこから自分で喰う中でその評価は補正されていくはずなんだが。そしてそれができていれば、他人の基準と実際の商品との間に齟齬があったことが発覚したところで、どうということはないはずなんだけれど。

 まあもちろん、それができない人が多いからこそ、レッテルだけごまかす手法がそれなりに通用するわけではある。これを書いている最終にも、比内地鶏の卵を使ったとか大吟醸を使ったとかいうお菓子の偽装が発覚して騒がれているけれど、そう書いておくと売れたわけね。ぼくはこの手の話でいちばんバカなのは、区別もつかないのにそれをありがたがって買っている、客だとは思うのだ。

近況:最近生まれて初めて電子レンジを買って、その便利さに感動しまくっております。解凍もできるのか!


前号へ 次号へ  『サイゾー』インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1!クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
の下でライセンスされています。