要約: エインズリーの本によれば、サルも目先の誘惑を避けようとする意志くらいは持っているとか。でも、なぜそんな不合理な部分が残っているのか? 実は子育てという手間が多くて不合理な行動を取らせるための策ではないかという考え方がある。少子化は、人の合理化が徹底してきた結果かも知れない。
サルのオナニーや、サルにタマネギの皮をむかせると、という話がある。あわれな畜生である愚かなエテ公は目先の快楽や達成感にとらわれてしまい、それが自分のためにならないことが理解できずに同じことを繰り返し、自滅の道を歩んでしまう。知恵のある人間たるもの、そういう目先の快楽や満足に捕らわれることなく、ぐっとこらえて長期的に自分のためになる合理的なことをしようではないですか、というわけだ。
ところが最近訳した本によれば、実はサルも自分のそういう目先の誘惑に対するこだわりがよくないということを認識できるそうだ。コカインをもらえるボタンをサルに与えると確かに狂ったように押し続けるけれど、そのボタンを効かなくする別のボタンを用意しておくと、結構な数のサルは、それを押してコカイン漬けの状態から逃れようとするそうだ。ちょうど、禁煙しようとしている人間が、タバコを見ないようにそれを隠したりすててしまったり封印したりするようなものだ。そしてもちろん、そうやってコカイン断ちをしたサルの目の前にコカインをチラつかせてやると、誘惑に耐えられずにもとの習慣に戻ってしまうそうな。なんか……人間ってサルから全然進歩してないんだねえ。いや、実はサルまでいかなくてもいい。ハトですら、それができるそうな。ハト、すげえ。
この本の主張は、別に人間なんかサルと同じよ、ということではない。目先の誘惑に耐えようとするだけなら(そしてそのためにその誘惑をなくしたりするだけなら)動物にもできる。でも人間はこうした目先の誘惑に耐えるためにもっと高度な技を編み出した、ということだ。それが「意志」というやつだ。考えてみれば、人がいちばん意志の力を必要とするのは、誘惑に耐えるときでしょう。「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ!」というやつ。その意志によって、たとえば「これはこの一回だけでなく、おれの生き様がかかった選択なのだ!」「これは人の道に反する!」と話をもっと大きなルールの一部としてとらえ、人は誘惑に勝ち、合理的な行動ができるようになる。でも逆に、その意志がかえって事態を悪化させるときもあって、変にルールにこだわり柔軟な対応ができなくなると拒食症になったり……
と、実におもしろい理屈なんだが、ここで一つの問題がある。要するに、ハトですら認識できるほどの不合理性をかかえて動物は進化してきた。なぜ? 不合理な部分を抱えていると、生存に不利ではないか。なぜ各種の動物でこんな変なメカニズムが生き残っているんだろうか? なぜ数ーパー合理的な、ミスター・スポックみたいな種がそれを駆逐しなかったのか?
著者は 目先の誘惑にとらわれたほうが、種を残しやすいからではないか、という。合理的に考えたら、結婚だの出産だの、ばからしくてやってられない。でも、目先の誘惑にとらわれやすければ、異性の色香に目がくらみ、気がついたら共にベッドの中(最悪の場合には強姦)となり、子孫ができてしまう。子供ができても、合理的ならばからしくて子育てなんかやってられないが、それも目先のかわいさで――というわけだ。
うーん。これはなかなかおもしろい説だ。そしてこれは、ある意味で日本の出生率低下の説明でもある。勉強して学歴が高くなると、物事が合理的に見られるようになって、子作りなんかいやになる、というわけだ(そしてこれは女だけの話でもないのだ)。ちなみに、原田泰の試算だと、これに対抗して合理的に出生率をあげるために必要なエサは一人あたり億単位になるとか。猪口邦子のやってることなんざ鼻くそほどの役にもたたない。
これが人の合理性のコストか。実は、それに対抗するための手段というのが日本的「かわいい」の爆発的な発展ではないかと思っているんだが……この話はまた今度。
近況:仕事が決まらず日本にずっといるので、翻訳等がいまいちはかどりません。
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