CYZO 2005/04号。表紙は岩佐真悠子 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝ではなく問題提起:自由って何だろう。

(『CYZO』2005 年 4 月)

山形浩生



 ダニエル・デネットの『進化する自由』(仮題)という本を訳し終えて、いま解説をほぼ書き終えたところだ。今回のはその解説と一部重複することになる。

 この本のねらいは、自由意志とそれに伴う責任というものを唯物論・進化論的に位置づけるというとんでもないものだ。科学の発達は、自由意志を危うくすると思われていることが多い。原子や素粒子論は、ラプラスの悪魔的な決定論(原子の動きは全部物理法則でがっちり決まってるんだから、この先起こることもすべて決まっていて意志の介入する余地はないという説)につながり、遺伝子や環境の影響はその分だけ人の意志が介入できる余地もせばまる、というわけ。デネットがそれにどう答えるかは読んでのお楽しみ。ぼくがおもしろいと思ったのは、かれが心配していることと、日本で見かける自由意志をめぐる心配との差だ。

 デネットが心配しているのは、人が合理的に行動できない可能性だ。人はだまされやすいし、自分で後悔するとわかっているような行動(酒を飲み過ぎたり、仕事をぐずぐず先送りにしたり)ばかりやる。それは人がいかにいろんなものにとらわれて、自由で正しい判断から逸脱してしまうかを示しているという。一方、日本でよく見かける議論のほとんどは、人が合理的になりすぎることを心配している。合理的な選択しかできないなら、それは自由ではない、というのがその議論だ。本能やその場の気分に任せて好き勝手にできず、周囲の顔色や対面、長期的な配慮なんかに制約され、自由はどんどん狭まるではないか、というわけ。

 ところがデネットに言わせれば、合理的でないことこそが自由でないことだ。合理的だというのは、理由を自分で考えたうえで選ぶ、というプロセスだ。それこそが自由の自由たるゆえんだろう。それ以外の選択というのは、本能に縛られたり、目先の衝動に縛られたりしている結果なんだから、自由ではない。周囲の顔色をうかがえたり、短期的な衝動や欲望に抵抗できることこそが自由なんだ、と。

 そしてそこに出てくるのが責任の議論だ。動物は責任を取れない。遺伝や環境的に制約された本能にしたがって動いているだけの――そう動く以外のことができない――存在に責任を負わせることはできない。負わせてどうなる、というのはもちろんある。責任あることにしたところで、人を噛んだイヌに賠償金を請求するわけにもいかんでしょう。でも、それ以前の問題として、理念的にもイヌは責任を負えない。それは精神病の人が犯罪を犯しても、罪に問わないのと同じ考え方だ。かれらは合理的な選択がそもそもできない(ことになっている)。そこには自由はない。したがって責任もない。自由には責任が伴うという、よく言われる発想を重視するなら、むしろわれわれが、文句を言いながらも社会的規範や長期的な判断に縛られることこそが、責任を伴う自由を持つことなのだ、という。

 この場でこのどっちの立場が正しいとかまちがっているとか言うつもりはない。だけれど、自由についてどっちの考え方をとるかで、実は多くの判断が変わってくるとは思うのだ。合理性に逆らうのが自由だ、というのは全体主義や高度管理社会に対して自由を称揚する立場だ。でもデネット的な立場は、むしろ高度管理社会を実現することこそが自由という立場にもつながる。これは一見、直感に反するんだけれど(デネット自身も気がついていないようだ)、実はいちがいに否定できない発想なのだ。

 さて、あなたにとっての自由はどういうものだろうか?



近況:こんなことを考えながら、ガーナの奥地をのたくっております。でも予想よりいいところ。ネズミやトカゲも食えます。



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