CYZO 2000/11号。表紙は伊東美咲。きれいだがこの写真は角度がちょっと悪いような。 山形道場 復活第 18 段

「今月の喝! ではなく思いつき:アートと IT」

(『CYZO』2000 年 11 月)

山形浩生


 あの八谷”ポストペット”和彦と、アートとITという変なテーマで対談するチャンスがあって、それはそれでとてもおもしろかったんだけれど、そのときの話のなかで、ふと思ったことがあるので書いておこう。それは、コンピュータを使ったアートと称するものが軒並みつまんなくて、その可能性ってのはどんなところにあるのかな、と考えていたときにふと思いついたことだ。

 アート作品、に限った話ではないけどたぶん人間のつくるすべてのものには、まず作品や成果そのものの水準がある。まあ物理層とでも言おうか。

 次のレベルとしては、ここんとこの筆遣いがどうのこうのとか、この材質の選び方がどうのこうのとか、この繊細な仕上げが云々、というような、技術みたいな部分があるだろう。あるいは、その描き方とかね。実装のレイヤーですな。

 そしてそのさらにしたにたぶん、その根本にある発想というか、アイデアというか、アルゴリズムというか、そういうものがある。層はもっと細かくいろいろわけられそうだけれど、まあここではそんな厳密な話がしたいわけじゃない。

 で、とりあえずこれまでは、これを分離する方法がなかった。たとえばマグリットなんていうのは、主にアイデアの人で、それに多少の実装が加わって価値ができている。実際のブツは、実はどうでもいい。だれもマグリットの繊細な筆致が、とは言わない。かれの絵は、ポスターになってもほとんど実物と同じ価値を提供できる。あるいはコンセプチュアルなんとか、というのは、基本的には自分はアイデアだけですよ、と言っているわけだ。ただし、結局は何らかの形でそれをモノに落とさないと「作品」にはならない。アイデアだけを示すことは不可能だった。

 例外はもちろんある。ウィリアム・バロウズという変な作家がいたんだけれど、この人はカットアップという技法で有名になった。実際の作品なんかだれも読まないけれど、でもみんなその技法だけは知っている。そしてその技法と考え方だけで、かれは有名になれている。でもそれはあくまで例外。多くはそうはいかないし、デュシャンの「泉」はコンセプトで勝負をかけようと思ったら、どうでもいいはずだったブツが祭り上げられちゃったかわいそうな例だ。

 ところが、コンピュータはこれを切り分けられるのだ。コンピュータのソフトは、まずプログラマが「このソフトはこういうソフトだ」というアイデアをもとに、それを実現するためのプログラムを書く。そしてそれを変換することで、実際にコンピュータ上で動いて人が使える「ソフト」ができあがる。ソフトのすべては、そのプログラマが書いたプログラムに表現されている。アイデアも、実装も。作品を見なくても、作品の中身はわかってしまうわけだ。

 バロウズのカットアップは、いろんな文をいろいろ切って並べ替えよう、というものだった。それがかれのアイデアだ。それをコンピュータで実現した人は何人かいる。細真宏通はまさに「ドクターバロウズ」というソフトを開発したし、ネットスケープの主要開発者だったジェイミー・ザヴィンスキーも dadadodoWebCollage というソフトを作っている。それで何ができるか、は確かにすごいのだけれど、でもそれをプログラミングした、その考え方を具体化して、実装したというところに彼らのすごさはある。WebCollageの場合、実際にぼくたちがそれを実行すれば、何かページができる。それが従来の「作品」だ。でも、すごいのはその作品そのものではなく、それを作ることを可能にした発想と実装、つまりプログラミングだ。作品と、そしてその背後の概念とがここでは完全に分離されて、しかもその背後の概念のほうが評価されるようになっている。

 これがもう少し進んだらどうなると思う? まず、思いつきを形にするという行為のあり方がまったく変わるだろう。「作品」と称するものの考え方も変わるだろう。そしてもう一歩すすめば? 昔、藤本裕之という人が「だれも吉本ばななをリバースエンジニアリングしたりしない」と冗談で書いていたけれど、それが本気でできるかもしれない。コンピュータのソフトは、根気さえあれば、その根っこにあるアルゴリズムにさかのぼれる。人がつくる芸術作品は、あまりに精妙で複雑だからそんなことはできないというのが定説だけれど、でもどうだろう。単細胞でワンパターンな作家、たとえば吉本ばななとか田口ランディとか北沢拓也とか蘭光生とか、じゅうぶんリバースエンジニアリングできるんじゃないか。たぶんその核にあるアルゴリズムは、バカみたいに簡単なものあるはずだ。そして、それが解析されて、いくらでも吉本ばなな的文章がだれのデスクトップでも量産できるようになったとしたら――

 そのとき、著作権というのはどこに生じるのだろう。作家のオリジナリティとか、アイデンティティとか、だれが何を書いたのという話はどうなるだろう。いやそれより、そのアルゴリズムをみたとき、人が「作品」というものに対する態度はどう変わるだろうか? ぼくはそれが知りたい。

近況:最近はプラシーボばっかりきいてます。来週新作が出るぞ!



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