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ポストヒューマン誕生

連載第?回

バーチャル世界だけで人類は発展できるのだろうか。

(『CUT』2007 年 4 月)

山形浩生

要約:カーツワイルはテクノロジーによる明るい未来像を描こうとするんだけれど、その半分くらいはバーチャル世界の話だ。でもかれの未来像からは、昔は必須だった宇宙開発が欠けている。これから世界的に人口が減るなか、もう人類は宇宙に進出する必然性をなくしてしまったんだろう。それはある意味で寂しいことでもある。



 ぼくが小学生の頃、ちょうど大阪万博なんかもあったし、アポロが月にいったりもしたし、21世紀にはかつてのSFに出てきたような、ぴかぴかの未来がやってくるんだというのを多くの人が本気で信じていた。あらゆるものがコンピュータできちんと制御されてつまらない雑用はすべて人間のような知性をもったロボットが片付けてくれ、人々は何の心配もないまま勝手気ままに暮らすようになる――当時はかなり本気でみんなそう考えていた。病気もなくなり、老いもなくなり肉体にガタがきても機械とすぐに取り替えられるようになって寿命もどんどんのびる。当時は人口爆発と食料不足が世界的な心配事だったので、そんなことになったら人口がもっと増えて困るという説もあったけれど、それは宇宙進出に伴って問題ではなくなるはずだった。人は宇宙に進出し、月や火星や宇宙ステーションやスペースコロニーに暮らすことで地球への負荷を減らせばいい。

 それがおかしくなりはじめたのはいつ頃だったんだろうか。いやもうその頃すでに、兆候はあったんだろう。公害、ベトナム戦争、そしてその後のオイルショック。バラ色の未来がもうないんだなあ、と思うようになったのはいつ頃だったっけそして最近やたらに環境問題が取りざたされるようになり、さらに日本では日銀の失策で景気低迷が続いて将来的な成長というシナリオが想像しがたくなっていることもあって、多くの人はもうこの先、現状維持すらむずかしいような認識を漠然と抱いている。

 そんななかで、このカーツワイル『ポスト・ヒューマンの誕生』のような本は、なんだかかえってアナクロに見えることだろう。未来は明るい! まもなく人類は大きな転換点を迎え、まったく新しい段階に達し、飛躍的な進化の時代がやってくる! 人は生物としての限界を超え、いまの環境問題も含めあらゆる問題を解決し、まったく新しい進化のステージに突入するのだ!

 カーツワイルは、コンピュータの発展に期待をよせている。今後、コンピュータはますます進歩をとげ、計算能力を高める。いずれ人工知能が人類全体の知能を超えるようになるだろう。いまはほとんど理解されていない脳も、完全に分析されつくし、その仕組みも機構もすべてコンピュータモデルとして再現できるようになる。ナノテクとロボット工学の進歩によってあらゆるものが分子レベルで制御できるようになり、物質供給も思いのまま、人体の一部を修復するのもお茶の子さいさい。そして脳が完全にコンピュータの中で再現できるようになったら、もはや肉体にこだわる理由もあるだろうか。人は肉体の呪縛から解放され、コンピュータシミュレーションと不老不死の肉体の世界とを自由に行き来するようになる。もちろんそのとき、人間がいまの記憶や論理能力、計算力などの限界に甘んじる必要もない。コンピュータや人工知能に補われた、いまとまったくレベルのちがう思考、行動が実現できるようになる! そのときもはや、その「人間」はいまの人間とはレベルのちがう進化の段階に達する。そしてその能力はコンピュータの進歩とともにどこまでも発達を続ける……

 ここまでストレートな進歩史観を読むのは、本当に久々のことだ。そしてぼくは、この肉体とバーチャルな知性とを行き来する、というイメージがよくわからない(多くのSF作家がよく持ち出すイメージなんだが)。ぼくの人格や知性をコンピュータにコピーできたとしても、この肉体にとらわれたぼくがいなくなるわけじゃないでしょうに。肉体にとらわれたぼくは、死ぬのはいやでしょうに。でも、この著者は本気でこの未来像を信じている。そしてこの動きが決定的となる歴史上の時点――人工知能が人類の知能を超える、特異点(シンギュラリティ)が今世紀半ばにはやってくることを信じ、著者はそれまで生き延びられるようにひたすら健康に気をつかっているのだそうな。

 今世紀半ば。たぶんぼくは(そして読者のみなさんの多く)はまだ生きているだろう。そのとき、ぼくたちはどんな選択をするだろうか。80過ぎのジジイになったぼくは、人工知能に補われた生を選ぶか、それともおとなしく死ぬことを選ぶか。それはそのときになってみないとわからないけれど、それがきわめて魅惑的な可能性を持つ選択肢であるのはまちがいない。そして著者の自信たっぷりな筆致は、確かにこの議論に強い説得力をもたらしている。

 が……ただ、この未来像で一つ、冒頭で描いた 1970 年代の未来像とは大きく異なっていることがある。もはや宇宙開発というのが、まったく視野に入っていないことだ。本書にも宇宙進出の話が出てこないわけではないのだけれど、それは月開発とか火星開発、外宇宙進出といった通常のイメージとはかなりちがうものだ。そしてその原因は(本書にははっきり書いていないけれど)、人口の停滞だ。今後地球の人口は、せいぜいいまの二倍に達するくらい。十分に地球におさまる。わざわざ地球外にでかけていかなくてはならない理由なんかない。人が不老不死になっても、その多くはバーチャルな(でもこの現実よりリアルな)コンピュータシミュレーションの中で生きるらしい。うーん。

 それは果たして、人類の進歩と呼べるものなんだろうか。大半がコンピュータの中のバーチャルな存在になったとき、人類の発展って何なのか――質的に向上しても個体数が増えない発展とはどんなものなのか――ぼくにはイメージできないのだ。それはぼくが、旧来の個体としての人間観にとらわれきっているせいなのだろうか。それが本書の未来像で、ぼくがピンとこないところなんだけれど――どうなんだろう。それがピンとくるかどうかで、さっきいった今世紀半ばに死を選ぶかバーチャル存在となる道を選ぶかがわかれるような気もする。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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