Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese
マインド

連載第?回

小説と抑圧の共犯関係から本書は目をそらしてしまう。

(『CUT』2006 年 10 月)

山形浩生

要約: 本書は、抑圧の中でも文学を読み、その文学の力によって抑圧の中でも救われた人々の話に見えるが、実際にはその小説は、抑圧されていたからこそ力を持ち得た。いま、世界で文学が力を失っているのは、そうした抑圧がなくなりつつあることの裏返しでしかなく、それに対抗するためにギュンター・グラスなどの文学者たちは他人事の問題をお題目として消費するだけの存在になりつつある。



 ギュンター・グラスがこともあろうにナチス親衛隊に所属していたと告白したことで、ヨーロッパの文壇が大騒ぎになっていることはすでにご存じだろう。ドイツ文学界の良心とも言われ、かつて少しでもナチスと関係していた作家たちを声高に罵っていたあのグラスが! しかも墓まで持ってけばいいのになぜ今頃? グラス自身は「沈黙の重みに耐えられなくなった」とか言っているけれど、一方では単に最近出た自伝を売るためのパフォーマンスとか、あるいは情報公開で近々発表されるはずのナチス資料でバレるのがわかり、先回りして自分から発表しておいたのだ、とかいろいろ憶測がとびかっている。

 個人的には、そんな昔のことは大目に見てやれよと思うのだが、その一方でぼくはグラスの小説はあまり好きじゃない。今回の騒動を機に『ひらめ』を再読したんだけれど、着想やエピソードの多くはおもしろいのに(料理はまずそうだが)、それを何やらインドの飢餓やらフェミニズムやら、はては毛沢東主義と文革礼賛といった安易なイデオロギーに奉仕させ、そして数々のエピソードがそうしたイデオロギーに深みを持たせることもなく、ひたすら浅く羅列されるだけ。30 年たった今から見れば、そのイデオロギー自体がかなりピントはずれで(インドは飢餓を迎えなかったし、毛沢東と文革は史上最悪の殺人を展開した)、それがとりもなおさず、かれの「問題意識」の水準を示している。男で、先進国のドイツでたらふく喰って、資本主義のもたらした自由のおかげで社会主義を礼賛できたグラスにとって、そこに挙がった課題はどれも他人事のお題目以上ではあり得ないのだもの。

 アザール・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』に出てくる女性たちは、そうはいかなかった。これはホメイニ革命後のイランで、言論の自由も女性の地位もイスラム復古で弾圧されまくっていたなか、密かに英米文学の読書会をやっていた女性たちの半実話だ。そして、それはとても美しい話だ。彼女たちは、本当に当事者として抑圧され、弾圧をうけ、自由を奪われていた。でも、『ロリータ』をはじめとする小説を読むことが彼女たちの救いとなる。そこに彼女たちは、自分たちと同じ抑圧、他人の欲望のために苦しめられる人々たちの姿を見いだし、自分たちと重ね合わせる。逆境の中でそうした小説を書き続けた作家たちに思いをよせる。それはおそらく、理想的な本と読者との関係だろう。読者は――特に小説に対してまだ希望と幻想を持つ読者たちは――本書に描かれた小説との蜜月を羨望の思いで眺め、そして同時に彼女たちの置かれたつらい境遇――小説すら自由に読めず、議論もできない境遇――に思いをはせて同情することとなる。そうした逆境を救う小説の力とはなんとすばらしいものか。小説を、文学を読むことで、人はそうした他人の同情を思いやる気分が理解できるようになるのだ、と。そして行きがけの駄賃で、だから最近のガキどもが本を読まなくなったのは嘆かわしい、なんていうお説教もできる。

 でもそうじゃないのだ。それがこの本の持つとてもつらいところなのだ。この本の少女たちは、小説を読むことで他人を思いやる気持ちや身勝手な欲望の有害さを理解したんじゃない。彼女たちは、おかれた環境のせいで、どのみちそうした部分に敏感になっていただけだ。だからこそ、小説の中でそういう部分に反応できた。抑圧にもかかわらず小説の力のおかげで耐えられたのではない。抑圧されていたからこそ、小説は力を持ち、輝いて見えた。むしろ小説と抑圧は共犯関係にあるのだ。

 それはイランだけじゃない。ラテンアメリカ文学が驚異的な作品を機関銃のように量産していた時代――それはまさに、ラテンアメリカが政治的にひどい状況にあり、日常的に抑圧と不自由が存在していた時代だ。映画もそうだ。数年前に、奇跡のようなイラン映画が次々に公開されたのは、まさに本書と同じ環境でのことだった。抑圧が、小説を、映画を輝かせ、力を持たせる。逆にいえば、いまの日本をはじめ先進国で小説がかつてのような力を失っているのは、そうした場所で抑圧がすでに存在しないから、でもある。

 人によっては言うだろう。そんなことはない、いまでも抑圧はあり、不自由は存在するのだ、と。人々は強制的に君が代を歌わされるではないか、女性の地位は低いではないか、9.11以後の監視社会はどうだ、小説を読むことでそれに対する感性が養われるのだ、と。

 でも……この本の登場人物たちが体験しているようなイランでの弾圧と、いまの女性「差別」や君が代なんかの話は、とうてい同列に扱えるものじゃないというのは明らかなはずだ。前者は本物の抑圧であり弾圧。それに比べりゃ後者はままごと。それを同じ「抑圧」と呼ぶことが、ぼくは本物の抑圧への冒涜だと思う。、いまの先進国社会はそんな重箱の隅くらいしか問題が残っていない。そして小説は、そうした重箱の隅にしか奉仕できなくなっている。

 そして悲しいことに、小説を「ブンガク」というレッテルつきで読む人の多くは、その小説と抑圧との共犯関係を見ようとしない。ブンガクは、抑圧に対する抵抗の力だ、と思っている。確かに、そういう部分はある。でも、その抑圧がなくなってしまったら?

 いま、小説を書くこと、読むことのむずかしさはそこにある。人はそのとき、ギュンター・グラスのように借り物の「問題」をさがしてきて、何とか共犯関係を延命させようとするだろう(かつてここで紹介したクッツェーのように)。本書は、抑圧が健在だった時代の幸福な小説へのノスタルジーをひたすらかき立てる。そしてそれは、抑圧と貧困と不自由を人々に待望させる危険なノスタルジーでもある。だが本書を読んで感動した人々のどれだけがそれを認識できるだろうか。だって本書は、そこから目をそらすことで成立しているのだもの。

前号へ 次号へ  CUT 2006 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1!cc-by-sa-licese
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
の下でライセンスされています。