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マインド

連載第?回

小さな本にこめられた、現代のイスラム談義への大きな批判。

(『CUT』2006 年 5 月)

山形浩生

要約: イスラムというものが現在の思想文脈の中で変な「他者」扱いされ、勝手な神秘化や理想化などが行われてしまっていること(特にそれがアカデミズムのイスラム業界内部で行われていること)への鋭い批判。サイード崇拝の風潮に対する批判も重要。



 この小さな本は基本的には書評を中心とした雑文集だから、とても軽く読める。雑文といってもまったく雑然としているわけじゃない。とりあげられた本やテーマは、おおむね中東イスラームの状況をめぐるものだ。それがある程度のまとまりを与えている。そして軽く読める一方で、ざっと通読すると本書が一見したほどはお手軽な本でないことがだんだん浮かび上がってくるのだ。

 中東やイスラームというのは、一般の日本人にはなじみがない分、扱いにくいテーマだ。宗教としてもあまりとっかかりがないし、ニュース等から入ってくる通俗的なイメージは、現在ではもっぱらテロがらみだし、ちょっとした風刺漫画や小説で暴動を起こして焼きうち殺人までやらかすおっかない連中、ついでに女性蔑視の変な宗教だ。一方で、特に反米だの反グローバリズムだのといった主張をしたい人々はイスラームを妙にありがたがり、常軌を逸したとしか思えない各種のできごとに対して「いやそれは欧米的価値の押しつけだ、多元的な価値の許容が云々、昔のイスラーム文化はえらかった」といったまるっきり的外れなコメントをしたりする。

 本書の著者の池内恵は、中東研究者としてこうした状況をとても冷めた目で見ている。本書におさめられたカイロでの日々をつづるエッセイ群は、エジプトのちょっとかわった日常習俗紹介とともに、イスラームといえば何か特別な変わったものがあるという変な期待をはたき落とす、楽しいが有益な読み物となっている。かれはイスラーム研究業界が、イスラームを何やら特別視するような誇大宣伝をしていることを苦々しく思っており、このエッセイ群でも多少なりともそうした印象を和らげようとしている。

 本書の書評も、多様な本を扱いつつ漠然とそうした方向性を目指している。中東やイスラームへの認識として本当にフェアで有益なものは何か? 800 字かそこらの書評でそれをやる苦労は、ぼくはそれなりに知っているつもりだ。本の選び方と書き方の両方でかろうじてその片鱗をうかがわせるのが関の山だけれど、でも池内はそれをかなり上手にやっている。

 そして本書の特に白眉ともいえるのが、ルイス『イスラム世界はなぜ没落したか』への書評に端を発した、各種書評の書評、それに付随するエドワード・サイード批判、さらにはそれに伴う日本の中東イスラーム業界批判の長い文だ。

 このルイスの本は、かつて世界文化の頂点にあったイスラム世界が、なぜ停滞して第三世界になってしまったかを述べている。そして邦訳は不思議なことに、このルイスの議論をまっこうから否定する「解説」がついていた。

 池内は、この訳書を取り上げた国内の書評を検討したうえで、まずルイスの本を評価する。そして、ルイス批判の一つの源流としてのサイードを挙げている。かれはオリエンタリズム――西洋が自分を規定するために東洋に押しつけた身勝手な思いこみ――という概念を普及させた、パレスチナ出身の人物として名高い。そしてかれはあちこちでルイス批判をしているのだ。

 サイードは現代思想業界では人気がある。オリエンタリズムというのはある意味で根源的な西洋文明批判だし、その議論を現代における欧米の中東無理解にひきつけて語ったりするので、チョムスキーなどと同じくアメリカ批判をする知識人として重宝されている。だがかれの経歴詐称疑惑が取りざたされたことがある。かれはパレスチナ出身であることをネタに故郷喪失だなんだと騒いでアメリカやイスラエル国家批判を展開するが、実際にはカイロの英語租界育ちで、パレスチナなんか関係ないじゃないか、という批判だ。これに対しては、パレスチナにあった叔母さんの家によく遊びにいっていたから詐称じゃない、という反論(になってないが)が出ている。

 池内はこれには言及していないけれど、サイードがイメージほどはアラブ世界ともパレスチナとも関係なく、アラビア語も大してできず、アラブ世界ではまったく相手にされておらず、アラブ中東をネタに欧米で英語でしか書かない人物だと指摘したうえで、サイードの議論の問題点を挙げ、むしろルイスのほうがきちんとした学問的な基盤に基づいて発言をしていることを明確に示してくれる。そして、日本にも多いサイード信者、さらには中東に反近代的な幻想を投影してしまう傾向について、穏やかな口調ながらもきわめて手厳しい批判を展開している。アラブ世界は近代化しないという批判に対し、近代化のかわりにイスラーム化という変ななんでもありの概念が持ち出されている、と(あ、ちなみにこの「イスラーム」という書き方も、その過程で生じた言葉狩りの結果だそうな。知らなかった。ぼくは確か板垣雄三に影響されような記憶がある)。

 そこからイスラーム(いや、もうふつうにイスラムと書こう)へのあるべき見方を述べる池内の議論は大変に考えさせられるものだ。ビン・ラディンをどう捉えるか? あんなのは例外的な異端テロリストです、と答えるのがありがちなパターンだ。でも池内は(エスポズィートも述べているように)必ずしもそうではなく、イスラムの通常の政治思想内に十分おさまるものだ、と指摘する。じゃあどうすれば? 池内の議論を敷衍すれば、問題はこちら側がイスラムにどうあわせるかではなく、イスラム側が現代世界に適応してどのように変わるか、ということになりそうだが、本書はそこまでは踏み込んでいない。

 たぶんこの部分を読んでから前半のエッセイ等を読み返すと、印象はだいぶ変わってくるんじゃないか。なぜかれが、イスラム的サッカーなんかない、などという文を書いているのか、というのも見えやすくなる。そしてそれは、ぼくたち一般の読者が今後どのように中東やイスラムを見るかという視点をも、多様なレベルで少し変えてくれるのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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