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マインド

連載第?回

心や意識の問題でも、もはや哲学はジリ貧らしいことについて。

(『CUT』2006 年 3 月)

山形浩生

要約: サールは人工知能や意識問題の哲学分野では重鎮ではあり、その知見を使った幅広い紹介はされているものの、その「新しい見方」と称するものはちっとも新しく思えず、むしろ哲学の後退戦の中でなんとか領土を確保しようという悪あがきにしか思えない。



 サールによる意識や心についての総覧的な入門書ときいては、期待しないわけにはいかないだろう。 サールは、とってもえらい学者だ。そしてかれの考えた、中国人の部屋という問題は非常に大きな課題を人工知能その他の分野に投げかけた。でも、哲学にできるのは問題をなげかけることだけで、解決はできない、という説がある。本書を読んで、まさにその好例だなあ、という気がぼくはしてしまったのだ。それどころか本書を読む限り、かれは逃げの準備に入っているとすら思える。

 意識とか心という問題がむずかしいのは、ぼくが他人の意識に直接アクセスすることができないからだ。人形にスイッチを取り付けて、叩くと「痛い」という声が流れるようにしよう。さて、その人形が本当に痛がっているの? 犬を叩くとキャンキャン吠えて痛がっているようだけれど、本当に痛いの? 解剖してみて、ここの神経にこうやって信号が流れ、脳のここが活性化すると痛みと呼ばれるものを感じるらしい、という仕組みはわかる。それがあまり快くない感覚らしい、というのもわかるだろう。でも、それがこの「痛い」という主観的な意識なんだというのは、どう説明すればいいのか?

 できるという人もいれば、できないという人もいる。心も意識もすべては科学的・客観的に説明できるという還元論者と、「心」とか「魂」といったおばけみたいな謎の存在があって、物質的にいくら調べてもそれは決して解明できない、という二元論の立場だ。両者は昔から激しいバトルを繰り広げている。

 さてサールはその両方ともまちがっていて、自分が提案する「生物学的自然主義」なる新しい観点がそれを統合するのだ、と主張する。そしてそれが本書の最大の売りらしいんだが……その新しい観点というのは、心や意識の働きは因果的に物質的に説明できるけれど、存在論的な主観の部分はそれでは説明できない、という立場。

 えーと、これって何が目新しいの? よくあるふつうの態度じゃないのかな。そしてかれが「まちがってる」と主張する還元論者たちだって、別にこれには反対しないんじゃないかな。ところがサールによると、還元論というのは、それが存在しないという主張なんだって。日没を太陽が地球の陰に隠れることに還元したら、日没は存在しないと言っていることになるんだって (p.164)。はぁ? パソコンは、CPU とメモリとディスク等に還元できるけれど、それは別にコンピュータの存在を否定することにはならないでしょ。還元主義は意識や心が存在しないと主張している? ゴリゴリの還元論者であるチャーチランド夫妻やデネットだってそんなことは言っていない。極論を否定しただけで得意になられましても。

 そしてサールの観点で、結局何が実現されたのか、ぼくにはわからない。その存在論的な主観にアプローチする方法はあるの? それがないんなら、結局のところ、物質的、実験的にいろいろ研究を進めるしかないのでは?  さらに本書が、その存在論的な主観のところで挙げる各種の例や説明が、ぼくにはまったくピンとこない。たとえばかれは、1+1=2 というのを英語で考えるのとドイツ語で考えるのとでは感じ方がちがう、と主張する(p.179)。悪いけど、ぼくは日本語でも英語でも何を考えようと同じだ。いや、むしろ何語で考えているという感覚はあまりない。概念が先にもやもやとできて、その後でそれを何語で表現しようか考える感じだ。ちがうような気がするのは、慣れの問題、つまりは記憶と学習の問題じゃないのかな。

 あるいは、ヒトラーである自分を想像すると、それは今の自分であるという感覚とはまったくちがうだろう、という (p.376)。そうかぁ? 環境的な要因は除くなら、ナチの党首としての権力や制約もすべて除くということだ。だったら、大差ないんじゃないか? 要するにこうした主観的な差と称するものは、ちがうという結論ありきでいるからそう思えるだけなんじゃないか。それを根拠にあーだこーだ言われても、ぼくはほとんど説得力を感じなかった。

 本書は意識をめぐる各種立場を整理してくれる。ああいう説もあれば、こういう考え方もある。ふんふん、整理そのものは、それなりに有用だ。でも結局のところ、それは羅列でしかない。いろいろありますねえ、という以上の話じゃないな。そしておそらく、意識についての物質的、情報処理な理解が進むにつれて、本書の「整理」なんかどうでもよくなるだろう。それはスコラ哲学(だかなんだか)の天使の分類学にも等しい、単にことばを弄しているだけの机上の空論でしかなくなるんじゃないか。ぼくはそう思う。

 目玉のはずの新しい整理法も、特に目新しくもないし特に有用性があるようにも思えない。その他の整理も羅列にとどまる。さてほかに何かいいところは、といえば、翻訳はとても読みやすくて注意が行き届いている。最終章で、酸素の電子は一つより多いと思うけど、これは原文のミスかもしれない (注:翻訳のまちがいだそうな)。それと、心身問題とかを哲学的な問題として勉強したいと思っているズブの素人には、まあ勉強になるかもしれない。が、一方で本書が告げているのは、もはや哲学という代物がいかに意味を持たなくなっているかということだ。サールの「生物学的自然主義」のうち、物質世界に還元できる部分は、もはや哲学の出番はない、とサールは感じているようだ(この「生物学的」という言い方にも、ぼくは生気論じみた作為を感じるんだが、ちょっと考えすぎかな)。それが手の出せない存在論的主観なるものを持ち出すことで、哲学の逃げ場を作ろうとしてるようにぼくには見えるし、最終章はその弁明じみて聞こえる。でも、その逃げ場は、哲学にとって出口のない牢屋にもなりかねないのでは。たとえばデネットは、似たようなことを考えてはいる。でも科学の入ってこれないニッチを設定して安住しようとはしない。ぼくにはそのほうが遙かに生産的に思えるだけれど。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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