Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese
です博士

連載第?回

外部のない閉じた静物画の悲しみについて。

(『CUT』2006 年 3 月)

山形浩生

要約: ウルフの世界は何かが起こる世界ではない。すでに存在する完成された世界を、プローブのような登場人物たちが探索する話である。その世界は確かにきわめて美しい。しかしそれはまた、閉じた牢獄の世界でもある。



 ふと気がつくと、きみが読んでいた本はまもなく終わろうとしている。何となくきみにはもう、先がわかる。孤島のマッドサイエンティストであるデス博士は死に、魔性の美女は置き去りにされてしまうんだ、と。きみが好きだった登場人物たちはみな死に、あるいは消え、自分から遠いところにいってしまうのだ、と。ページをめくるきみの手が止まる。あんなに楽しかったのに。もう終わってしまうのか。

 でもそこでデス博士が出てきて、きみに告げる。そうかもしれないけれど、でも本をまた最初から開けば、みんな戻ってくるんだ、と。寸分変わることなく、まったく同じに。そしてデス博士は、さらにこう付け加えるのだ。

 「きみだってそうなんだ。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」

 きみだって同じ――その意味をきみが十分に咀嚼する間もなく、世界は終わり、きみはもはや存在しなくなる。数ヶ月後、だれかがまたこの本を開くと、きみは前と同じ実生活の不幸と、本の世界への幸福な逃避とを繰り返す。まったく同じに、何も変わることなく。きみは、幸せなことに、それを知ることはない。でもきみは――そう、それを読んでいるこちらのきみは――不幸にもそれを知ってしまう。きみが同じループの中を果てしなく生き続けるしかできないことを。きみが決してそこから――デス博士のように――抜け出してくることはないのだ、と。

 痛ましく、残酷な一節だ。

 人によっては、すべての本がそうだと言う。あらゆる文は、書かれた字面以上のものではないのだ、と。でもきみはそんなのがウソっぱちなのを知っている。字面以上の広がりを持つ文は確実に存在している。ある世界に向けての窓のような文。その文の外にも世界はあるし、それが読者にも十分に感じられる。

 だが、ジーン・ウルフの小説は、そういう文ではない。力作になればなるほど、ウルフの本はそれ自体として閉じる。そしてその外側はまったく存在しなくなってしまう。きみの世界はその本だけ。そしてその世界には、書かれている以上の知るべきことも知りうることもない。ウルフの世界は、一切変わらない。そしてウルフの登場人物たちも、ほぼ変わらない。かれらは、そのウルフがあらかじめ作った世界を探索するプローブでしかない。物語とともにだんだんに世界が緻密に埋められ――そしてその美しさは、もう本当に比類がない――一通り描かれたところで世界は終わる。

 かれの小説の多くは、いくつか謎を残している。ウルフの読者たちの多くは、それが解明できる謎だと思っている。たとえば本書収録の「アメリカの七夜」には実際には六夜分の記述しかない。そして手記形式の日記の執筆者は、毎晩幻覚剤が入っているかもしれないお菓子を食べる。失われた一夜には何があったのか? 幻覚剤入りのお菓子が食べられ(したがって手記が信用できない)のはいつか? 訳者をはじめ多くの人は、すべての種はそこに出ている、と述べる。でもそれはウソだ。それが本当ならば、なぜ 「アメリカの七夜」の謎解きについて、きちんとした定説がないのか。ウルフの提供している情報が不完全だからだ。そしていくら読み込んでも、今ある以上の情報が出てくることは決してない。それは実際に解けない謎でしかない。

 そしてなぜそんな謎が要るのか? それはウルフの小説が、動的な行動の小説ではなく、静物画的な存在を描く小説だからだ。例えば指輪物語の世界、ハリポタの世界、ナルニア国の世界であれば、その世界を地図に書いて、そしてその他の部分で起こる他の物語を想像することはできる。ウルフの世界は、それができない。世界が書き尽くされた時点で、地図が完全になった時点で、かれの小説は終わってしまう。ウルフの小説は、だれかが何かをする小説ではなく、その世界が何であるかを描くことにだけ関心がある。かれの小説の謎は、単に描ききれない部分を隠すための仕掛けだ。絵巻物に出てくる雲のようなものだ。

 かれの小説は常に、出発時点ですでに確定している。そして登場人物や風景、あるいは文章が勝手に動き出して、まったくちがうところに連れてこられてしまう爽快感は、ジーン・ウルフの小説にはない。それは見事に構築され、まったく破綻しない。突然クジラについてのうんちくが展開されてみたり、ためにするダジャレがまぎれこんでみたり、特に意味はないのになにやら出番の多いバランスの悪い(が忘れがたい)登場人物もいない。その世界の美しさに、きみは溜息をもらす。でもきみはわかる。いつか、この風景を眺め終わったら、もはやこの世界にはそれ以上のものはないのだ、と。もうこの本の世界とはこれっきりなのだ、と。

 人はこの本で、小説の喜びほとんどと、そして小説でしかないことの悲しみすべてを味わうことだろう。このどちらの比重が高いかは、あなた次第だ。ぼくは……ぼくは本書を読んで、むしろ悲しさのほうが強く感じられてしまったのだけれど――そしてしばらくは小説なんか読みたくなくなってしまったほどなのだけれど――それはぼくがすでに、素直さのかけらもないすれっからしの読者になっているからなのかもしれない。本書の世界は、閉じているとはいえ広く、豊穣なのだから。それがいつまでも続いてほしいと思うほうが、あるいはぜいたくなのかもしれない。そして、やがて記憶が薄れた頃、自分がこの世界に戻ってくるであろうことも、ぼくは知ってはいるのだ。

 ところで本書は五編の中短編小説に序文をつけたものだけれど、でも実はもう一つ小説が隠されているのだ。その隠された小説は、ウルフがほんの冗談で書いたものだけれど、この小説だけには、その字面を越えた世界と物語の広がりがある。それを見つけるのは、選ばれた読者たるきみの楽しみではある。

前号へ 次号へ  CUT 2006 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1!クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
の下でライセンスされています。