Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese
マオ

連載第?回

チアン=ハリデイ VS フィリップ・ショート:二つの毛沢東伝を比べると。

(『CUT』2006 年 1 月)

山形浩生

要約: ショート版の毛沢東伝は、思想史も追い、共産主義を選ぶまでの毛沢東の迷いと成長を描き出す。人間的な成長もあり、また文革を初め毛沢東が何を考えていたのか、それなりの論理を持って追う。これを読むと、チアン&ハリデイ『マオ』がいかに偏向しているか、一面的かはよくわかる。



 前回紹介したチアン&ハリデイ『マオ』は、話題作ではある。でも1999年に出たフィリップ・ショートによる『マオ:ある人生』は、それまで決定版毛沢東伝として高い評価を受けていた。チアン=ハリデイ版『マオ』はこれにかわる新たな決定版伝記となれるだろうか。今回はこの両者を比較してみよう。

 まずチアン版は、毛についての新説をたくさん出したのが話題なんだが、実はショート版の時点で多くの毛沢東神話は相当部分がすでに否定されている。八路軍が長征で逃げ回っていただけだとか、濾定橋の大決戦が実はなかったとか(2009年追記:失礼、ここは読み違い。ショート版は濾定橋の戦いがなかったなどとは言っていない。単に、スノーが書いたほど派手なものではなかったと述べているだけ)、国民党の敗北は内部に無数にいた共産スパイの暗躍による部分が大きいとか。とはいえ胡宗南がスパイというのは新説で、台湾ではすでに反論続出だとか。確かに目新しい話はある。旧ソ連の資料を多用しただけあって、張作霖事件や蒋介石拉致、朝鮮戦争などをめぐるスターリンらとの攻防は、かなりちがった現代アジア史の様相を描き出す可能性がある。これはチアン版の面目躍如だ。さらにその後、毛沢東が社会主義ブロックでの発言権を増すための援助の大盤振る舞いで、自国の貧窮に拍車をかけた記述の充実ぶりはショート版などにはなく、チアン版の大きな魅力だ。

 だが……その新資料を含めチアン&ハリデイはどこまでフェアだろうか。両者の記述が齟齬する箇所を見ると、かなり疑問が出てくる。たとえば息子を朝鮮戦争で失ったときに、ショート版は毛がひどく衝撃を受けていたという彭徳懐の証言を挙げるが、チアン版は毛が平然としていたと記述する(下p.90)。チアンらは、彭の証言を知らないはずはない。それを故意に無視し、さらに息子の嫁にその死をしばらく隠したことまで息子の死を軽視した証拠だと強弁して、家族を顧みない毛というイメージを作るやりかたは、ぼくにはちょっと悪質だとしか思えない。

 またチアン版は、共産党軍が共匪として忌み嫌われた残虐な農村強奪粛正弾圧部隊だったと書く。松原隆一郎は朝日新聞の書評 (1/15) で、恐怖政治だけであれほどの支配を維持できるものかと疑問を呈すのだが、八路軍の勝利については「人民が理想に燃えたからと見るのなら理解できる」と書く。理想? 小学校の学級会じゃあるまいし。ショート版を読むと、国民党側も中央の精鋭たちを除けばゴロツキ集団で、略奪と破壊と強姦の限りを尽くしていたことがわかる。チアン版では、中国農民たちは収奪されるに決まってるのに、多少の恫喝で共産軍をホイホイ支援する、まるっきりのバカだ。でもそうじゃなかったのだ。チアンらの描く最低最悪の共匪でさえ、まだ少しはましだったのだ。かれらにはそんな悲惨な選択肢しかなかったことを描くだけの視野の広さがショート版にはある。チアン版は、それを書かない。

 そして何よりも文化大革命だ。チアン版だと、毛沢東はカッペで古い文化が嫌いだったのと、増長して目障りな劉少奇の始末のためのお膳立てとして文革をやったにすぎない。だがショート版によれば、文革にはもっと毛沢東思想の根幹に関わる本質的な意味があった。毛沢東は死ぬまで、自分の最大の業績は共産革命と文化大革命だと語り、自分の死後も文革を継続せよと述べていたんだから。さらにショートによれば、文革頃から毛沢東は自分の亡き後の中国指導部について悩んでおり、文革も後継選抜の一貫だ。でもチアン版の毛は、自分の血筋や死後を気にしなかった変な中国人なので、そんな配慮はなかったことになるんだが……ホントですか?

 さて、この両者を読み比べてどうだろう。ぼくはチアン版に描かれた毛沢東像が信用できない。あまりにバカで軽率で衝動的なんだもの。軽率なバカは陰謀渦巻く中共上層部では長続きしなかったのだ。さらに、毛沢東はすでに一個人じゃない。それがその後の世界に与えた影響まで含めての存在だ。チアン版にはそれがない。前回、毛沢東の思想軽視はチアン版の大きな欠点だと指摘した。それが文化大革命のような重要事件の意味も見えにくくしているのは既述の通りだが、毛の死でチアン版は話があっさり終わり、文革の後始末など一切書かれていないのも同根だ。毛が桀紂なみの悪逆非道の暴君だったというだけじゃ昔話の域を出ない。かれの思想や遺産は現在にどう受け継がれたか――あるいは中国の場合には、鄧小平がいかにそれを断固として骨抜きにしたか――それこそが、いまの読者にとって重要なことだろう。特に一般向けの伝記においては。チアン版は思想を軽視したが故にそれを描けず、伝記としての意義が大きく損なわれている。ショート版は、毛の死後までまがりなりにも描いている。

 というわけで、これがぼくの現時点の評価だ。チアン版は、確かに抜群に面白いのだけれど、現代の伝記として高い点をあげられない。そこで使われた新資料とそれに基づく新説の検証は、今後専門家たちが十分にやってくれると信じたいし、それによってチアン版の価値も左右されるだろう。だが伝記というものに単なるゴシップ集以上のものを求める一般読者には、ぼくは今もやはりショート版をお薦めするだろう。邦訳がないのは本当に惜しい。そこでの毛沢東もまた、チアン版と同じく恐ろしい存在だが、それは気まぐれ暴君の怖さじゃない。むしろ老獪で陰湿な裏工作が果てしなくつむがれる、一筋の論理を持った恐ろしさで、しかもそれがきちんと当時の世界情勢の中に位置づいている。チアン版の『マオ』を読みながら、ぼくはなぜみんながこのバカな無能をその場で射殺しないのか、不思議でならなかったのだけれど、ショート版を読むとその理由が腑に落ちる。そしてそのほうが結局のところ、毛沢東という人物の恐ろしさ――そしてその現代的な意義――をよく伝えているように思うのだ。

前号へ 次号へ  CUT 2006 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1!クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
の下でライセンスされています。