連載第?回

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マオ

『マオ』における毛沢東の思想形成史の不在。

(『CUT』2005 年 12 月)

山形浩生

要約: チアン&ハリデイ『マオ』は、新資料を使って内容的にも衝撃的だが、思想の展開がまったく描かれず、最初から最後まで毛沢東は何ら変化しない。さらに、無能だと強調するんだが、それならなぜ中国統一を果たせたのか、という当然の疑問に答えられず、あまりに説得力に欠く。



 チアン&ハリデイ『マオ』は2005年に欧米でベストセラーとなった。ちょうど世界的に中国が存在感を増し、現代中国のルーツに対する関心も高まっている時期だ。毛沢東評価の見直しには絶好のタイミングで、本書は見事にその需要に応えた。その邦訳が原著出版から半年もせずに出版されたのは、日本の一読者としては実にありがたいことだ。

 本書は、従来の(専門家ではない一般に流布した)毛沢東像を徹底的にひっくり返す衝撃的なものとなっている。十億人民の父にして現代中国建国の祖、抗日戦における軍事的天才。そして特に左翼がかったインテリ層にとって、毛沢東は社会主義への傾倒とオリエンタリズムを同時に満足させてくれる便利な存在だった。ゴダールの一時期の映画を見た人であれば、その影響が(ファッションとしてであれ)どれほど強かったかは想像できるだろう。

 だが本書に描かれた毛沢東は、そうしたイメージとまったくちがう。毛沢東は自己中心的で残虐行為の大好きな好色爺でしかなく、人民のことなど一顧だにしない。軍事的にも無能で、権力の座についたのは恫喝と粛正による合従連衡ゲームにだけ異様に長けていたから。数千万人を殺した大躍進政策や文化大革命も、毛沢東にとっては権力ゲームのおまけでしかない。軍事的天才性を示すはずの長征は、実は粛正まみれの悲惨な逃避行にすぎず等々。

 次から次へと繰り出される、毛沢東の信じがたいほど狡猾な党内政治手腕と、それに伴う死屍累々の記述は読んでいて胸が悪くなるほどだが、まったく飽きさせない。そして本書の強みは、特にソ連の未公開資料を中心とした無数の新資料をベースにしていることだ。各種権力闘争の敗者たちにもたんねんなインタビューを積み重ねており、その迫力には比類がない。ないのだが……

 問題はその資料の使い方、およびその解釈だ。

 たとえば本書は、毛沢東の若い頃の作文に、既存体制の破壊願望や一般人民への軽視が書かれていたことを根拠にして、毛沢東は昔から残虐であり、大量虐殺につながるメンタリティを持っていたと匂わせる。自分が特別な存在だという記述を見つけては、その後の特権意識の証拠だとする。でも若い頃の人間はいろんな思いを行き来する。厭世的な破壊衝動を書き連ねた翌日にはそれを恥じ、博愛主義的な思いにとらわれたりする。それだけではその人物の心性を判断できないだろう。

 つまり本書は、毛に成長や変化の余地を一切認めない。毛は生まれつき残虐で怠惰で利己的だったと決めつける。なぜ毛沢東はマルクス主義者になったのという記述すらない。共産主義運動は、当時の流行だったので毛沢東もそれに便乗しただけだとにおわせるだけ。上下巻あわせて千ページ以上の本文の中で、毛沢東が田舎の農村から都会に出てきて、共産党に参加するまでの記述はたった15ページ。さらにその大半が、毛沢東の思想が当初から自己中心的で破壊と暴力を肯定するものだったと示すのに費やされる。

 そして毛沢東思想の特徴についても一切ふれられない。毛沢東「主義」の特徴は、都市部工場労働者を重視したソ連型のマルクス主義理論に対し、農民を中心に据えたことだとぼくは理解している。毛沢東は小作人の地主に対する妬みを利用してオルグを進め、この方針をめぐって中国共産党のソ連帰国組とはかなりの確執を展開した。この方針形成にあたっては、1920年代後半頃に毛が実施した農村調査の影響が大きいようだ。が、『マオ』にはこの調査に関する記述は一切ない。それをいうなら、そもそも毛沢東の論文や著作の内容についての記述もないに等しい。もちろん本書の主張では、毛沢東にとって共産主義は単なる方便で、形成されるべき思想などそもそもなかったわけだ。でもそんなことがあり得るか?

 というのも、その思想形成史の不在に伴って、最大の疑問点が起きてくるのだ。もし毛沢東が、それほど打算的で他人のことなど意に介さず私利私欲のためにしか動かなかったのであれば、そもそもなぜ共産ゲリラなどに身を投じたのか? 本書によれば毛沢東は常に安楽なほう、利益が大きいほう、権力が握れるほうへと流れていった結果として、やがて中国の独裁者の地位についたことになる。本書の記述に流されつつ読んでいると、そういうものかな、という気はする。しかし一歩ひいて考えてみると、これはあまりに無理が多い。もちろん当時の中国といまの日本とでは感覚がかなりちがうのだろう。だがそれにしてもだ。そこまで利にさとい人物が、過激派に身を投じたりするだろうか。共産党が国民党に勝利できる見込みがどこまであっただろうか? しかも毛沢東は裕福な農家の出で、決して喰うに困るような立場ではなかったというのに。一歩まちがえば毛沢東自身も危なかったケースは多々あるのだ。思想信条もなしになぜそこまでのリスクを? 本書はこの疑問に答えられない。

 ある意味で、本書は(意識してかどうかはわからないが)中国の伝統的な史書とよく似ている。そこでは、英雄なり暴君なりは、生まれながらに高い徳なり残虐性なりといった資質を持っており、そうした資質がいかに幼少時からあらわれていたかが説明される。本書もまさにそういう記述になっている。そして家族に対する愛を捨てられなかった蒋介石に対し、家族を捨て、子孫への未練を断ち切った毛沢東の冷酷さが勝利した、というストーリー作りも読み物としては抜群におもしろい。派閥抗争の権謀術策マニュアルにもなるし、また25年にわたり風呂に入らず、代わりに蒸しタオルで全身を拭かせていたといったエピソードも楽しい。だが、毛沢東について十分な歴史的理解を得るには、本書だけでは不備だ。というわけで次回は本書をフィリップ・ショート版『マオ』と比べてみよう。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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