グールド魚類手帖 連載第?回

魚になること、物語になること。

(『CUT』2005 年 8 月)

山形浩生



 ウラジーミル・ナボーコフは、小説を読むときの感情移入を卑しい読み方だとしている。小学校の読書鑑賞文では、しょっちゅう「主人公の気持ちを考えましょう」とか「あなたならどうしますか、主人公になったつもりで考えましょう」あるいは「作者の意図はなんでしょうか」なんて課題が出る。でも、そんなのは小説の読み方としてはむしろ不純なのである、とナボーコフは語る。なぜかといえば、それはしょせん、お涙ちょうだいやお笑いの域を出るものではないからだ。なにやらカップルが引き裂かれてまた出会うような話をつくれば馬鹿な連中はすぐに「感動」とか口走る。女子供に(大したことない)苦労でもさせとけば、みんなすぐに涙を流す。くだらない。そんなものを求める連中は、別に小説でなくったっていいのだもの。

 ナボーコフは、この『グールド魚類画帖』を読んで何と言っただろうか。

 本書は、感情移入の化け物みたいな本だ。それは読者のぼくたちが、主人公の気持ちを切実に感じるとかいう水準の話にとどまらない。書く者/描く者が常に、いつしか書かれている/描かれているはずのものと化してゆく。そんな動きの連続。かつてはやりのポストモダン評論であれば、生成変化とかいう用語を嬉々として振りかざしたろう。そんな本だ。見てごらん。タスマニアで、インチキアンティーク家具を馬鹿な観光客に売りつけていた男は、原料にする安物家具をあさる中で、ウィリアム・ビューロウ・グールドなる人物の手になる『魚の本』を見つける。魚の絵とそれにまつわるエピソードを書き連ねたその本は、研究者たちすべてにその信憑性を否定され、贋作だと決めつけられる。だが、もともと贋作家の男にとって、何が本物で何が偽物だろうか。やがて酒場で『魚の本』が忽然と消え失せたのを機に、男は自ら『魚の本』を作り出そうと決意する。

 舞台の大半は入植開始直後のタスマニア。当時のオーストラリアは、イギリスの犯罪者が送り込まれる流刑地だった。タスマニアはその中でもさらに凶悪な犯罪者が送られる島だ。私生児として生まれ、ロンドンを放浪していた話者は気がつくとタスマニア行きの船に詰め込まれ、現地の司令官をネタにした看板を描いたことで投獄される。だが生物学研究で名を挙げようとする医師の助手として、断続的に魚の絵を描き続けることとなる。その過程でかれは様々な人物と関わる。看守たち。魚の研究が失意のうちに終わり、次ぎにタスマニア人の人種的劣等を証明すべく、原住民の首を次々に塩漬けにしてイギリスに送り出す医師。その医師の末路と、それを話者の罪にしようとする書記官。タスマニアに一大楽園を作ろうとしては失敗する司令官。人々を残虐な圧政から解放してくれるはずの、伝説の革命家。話者はそのそれぞれのイメージを魚に託す。魚が人の顔を持ち、人が魚と化し、海から現れては死に、腐臭を放ち、やがて消滅する。そのすべてが、また話者と共に魚と化して海に戻る。

 原書は、複数の色のインキで印刷されている。囚人だった主人公には文章を書くことが許されていなかった。かれは己の血やタコの墨、砕いた貝や排泄物を使ってインキを作り、それによって記録を進める。これが邦訳で再現されなかったのは(コストの都合とはいえ)残念至極。本はかれの描いたいくつかの魚の絵を起点と終点としながらも、異様に猥雑ながらくたの山を積み上げつつ進行する。ある時には流刑地の無数の記録、あるときにはブタとともに暮らす医師の標本まみれの部屋。時には無数の囚人たちがつめこまれた監獄。そして時に、まったく無意味な超豪華リゾート施設「大麻雀館」とジオラマ鉄道。そのすべてがすさまじい勢いで積み上がり、そして高速度撮影の映画を見るようにすべて腐敗し、炎上し、倒壊する。それらのイメージは、またテキストの色にも大きく彩られただろうに。だが渡辺佐智江の翻訳はいつもながら、テキストの色のハンデをものともせずにそれを見事に再現してくれる。かつてラテンアメリカ文学が、独裁者たちの異様な暴虐に翻弄される世界を誇張だらけで描き出し、その凄惨さがユーモアすら帯びてきたのと同じく、本書に充満する残虐で陰惨なエピソードの数々も、あり得ないばかばかしさを帯びる。誰が誰だったのだろうか。何が起こり、何が起こらなかったのか、何が話者の妄想で、何が現実だったのか――それすらわからずに話は終わる。もちろん、それはすべて現代の贋作者がでっちあげた作り話でもある。だが歴史とは常にそうではないのか。それは絶えず人々の都合のいいように捏造され続け、改変され続ける。人の一人一人に、魚の一匹ごとに、それぞれの歴史があり、物語がある。それはまた、豊穣ながらも陰惨で、悲痛ながらもユーモラスな本書が描き出す、この世界の豊かさでもある。

 ちなみに話者ウィリアム・ビューロウ・グールドは実在し、かれの描いた魚の絵も残っている。インターネット上でも見られるその絵を見て、人は何を感じるだろう。その絵は、本書にも使われている。この表紙にも。店頭で、あるいはこの書評などで表紙を見かけたときには、ちょっとまぬけでひょうきんな顔のタツノオトシゴにしか見えなかった絵が、本書を読み終えた後にはあなたにとって苦しみと悲しみをもって迫ってくることになるだろう。本書によって、ウィリアム・ビューロウ・グールドは 小さな魚として。さて、あなたはいったいどのような魚と化すことになるのだろうか。あなたの物語はどんなものだろうか。本書を読むのはナボーコフが軽蔑するような卑しい感情移入とはまったくちがう。あなた自身が魚となり、物語となる、そんな体験だ。本書の最初と最後、主人公は話者となり、話者は魚となり、すべてが溶け合う。読者であるぼくたちもまた、その中に投げ込まれ、そしていまここに取り残されるのだ。

前号へ 次号へ  CUT 2005 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る


YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>