barbarians 連載第?回

『ニューロマンサー』現在形。

(『CUT』2004 年 7 月)

山形浩生



 かの『ニューロマンサー』以来(『ディファレンスエンジン』は例外として)ひたすら下降線をたどってきたウィリアム・ギブスンが、久々の逆転快作を放ってくれた。新作『パターン・レコグニション』だ。

 『ニューロマンサー』が異様に話題となり、それがちょうど萌芽を見せていたパソコン通信、ひいてはインターネットの普及と(といってもインターネットが本格的に普及を見せるのは、その10年近くも後だが)、それに前後して華やかとなったバーチャルリアリティの話題を先取りした形となってしまったのは、久々にSFが現実に先んじたという意味では非常に画期的なことだった(それ以前の数十年にわたり、SFは現実の後追いしかできなかったのだから)。でも、一方でそれはギブスンにとっては不幸なことだったのかもしれない。むかし、ここで『バーチャル・ライト』なんかの書評をやったときにも、それは感じたことだった。多くの人がギブスンの新作を読むとき、それは「こいつならインターネットの未来に通じる新しいビジョンを出してくれるんじゃないか」という期待からのことだった。そう思ってしまうのは読者の側も人情だろうし、また作家のほうとしても、それについつい応えなくては、と焦ってしまうのも人情。

 そのせい、なのかもしれない。電脳空間三部作に続く三部作、と言っていいのかな、『バーチャルライト』『あいどる』『フューチャーマチック』は、決していいできとはいえなかった。ときどき、不思議な空間の質感を感じさせてくれることはある。それは最初の電脳空間の描き方でも遺憾なく発揮されていたし、ギブスンの最大の魅力でもあった。でもその一方で、そこには何か痛々しいものがあった。なんかがんばって未来チックな話をしてしまおうとするところ、そしてさらに、特に『あいどる』以降で顕著だったけれど、妙にアジア(日本)の風俗小説っぽくして読者の顔色をうかがおうとする、というか柳の下のどじょうをあれこれ探し回っているようなところ。でも風俗との鬼ごっこは季節ものだし……

 ぼくはもう、ギブスンがそこから逃れることがあるとは思っていなかった。そういう役割を負わされて、そして今後すべてその役割との距離感でのみ語られる作者となり、少しずつ貯金を使い果たし、ときどきまったくちがった分野に手を出そうとしては無様に失敗し――そんな道をたどることになるんじゃないかと思っていた。

 でもこの予想は嬉しいことにはずれた。『パターン・レコグニション』は無理して「未来」(近未来であっても)を扱うことをやめて、単純に今の話をしはじめた。そしてそれによって『パターン・レコグニション』は、『ニューロマンサー』が期せずしてとらわれてしまった束縛からうまいこと逃れてくれた。

 といってもおもしろいことなんだけれど、その一方で実はこの『パターン・レコグニション』は意識的に(のはず)『ニューロマンサー』と似せてある。主人公が自分の職業に関連した障害を抱えているところ、同時にある失われた人間関係への未練と決別したようで実はそれに深くとらわれているところ、そしてそれがある謎の大富豪にちょっと変わった任務――あるものの探索――を依頼され、そしてその任務の達成を通じてその障害が解消される、と同時にかれらを捉えていた人間関係への未練も少し和らぐ(と同時に深まる)ところ。そして自分に仕事を依頼した富豪も、また別の大きな富/権力とのつながりを求めていたというところまで、物語の基本的な構造は『ニューロマンサー』とほとんど同じだ。何より、主人公の名前が『ニューロマンサー』と同じ「ケイス」だということが、この類似性が偶然や無意識のものなんかじゃないことを物語っている。

 ときはいま。ブランドアレルギーを持つ主人公ケイスは、そのブランドへの敏感さを活かしてロゴやキャラクター評価を生業としつつ、ネット上に断片的にあらわれる謎の映像のファンコミュニティの古参常連となっている。彼女の(そう、今回のケイスは女だ)父親は、ニューヨークのテロに巻き込まれたらしくその後消息を絶っているが、生死は定かでない。その中でケイスは、ある大手広告代理店社長の依頼で、その謎の映像の作者を探し出すことになる……

 ギブスンの十八番は、ある空間の質感を描き出す能力だ、とぼくは述べた。そして今回のケイスたちがめぐるロンドンやサンフランシスコ、東京、モスクワなどのいまの世界を定義づけているのは、『ニューロマンサー』のデッドテックとサイバー空間にかわり、ブランドだ。トミー・ヒルフィガーにミシュラン・マン、フルーツ・オブ・ザ・ルームのTシャツ……これを普通に並べていたら、現長野県知事のデビュー作みたいな代物になったかもしれない。でもブランドアレルギーという、コロンブスの卵めいたアイデアを思いつくことで、ギブスンは見事にそれをかわしている。彼女がそれを鋭敏に感じるのはアレルギーのためではあるのだけれど、それがいまのぼくたちの世界が持っている空間の質感を見事に言い当てている。それだけじゃない。ネット、携帯電話、インターネットとグーグルの検索、アングラおたくコミュニティ、同時多発テロ――ギブスンは、いまのぼくたちの世界を規定している各種の要素をすべてちりばめつつ、それをきれいにまとめあげ、適当なマクガフィンを加えつつ物語としてのスピード感をも実現している。本書も『ニューロマンサー』と同じく(そしてギブスンの他のすべての作品と同じく)、読み終わったぼくたちの脳裏には、ストーリーなんかあまり残っていない。結局、例の映像の作者ってだれだっけ? それがロシアのマフィアとなんでからんでいたんだっけ? たった一日のうちに、ぼくはもう忘れてしまっている。でも、その世界とその感触だけは、その異様な、だがおなじみの現在だけは、本を閉じた後もぼくたちとともにいつまでも残り続ける。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>